真央妨害報道 黒幕はヨナ母?「なぜ流した」放送した韓国テレビ局に逆ギレ passenger |
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真央妨害報道 黒幕はヨナ母?「なぜ流した」放送した韓国テレビ局に逆ギレ
3月30日付け東京スポーツ紙面
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真央妨害報道 黒幕はヨナ母?「なぜ流した」放送した韓国テレビ局に逆ギレ
(東京スポーツ 2009/03/30)
【米国・カリフォルニア州ロサンゼルス28日(日本時間29日)発=上野雄大】世界選手権(ステープルズセンター)は28日、女子フリーの演技が行われキム・ヨナ(金妍兒、18=韓国)が圧倒的強さで優勝。連覇を目指した浅田真央(18=中京大中京高)は4位に終わった。そんな中、本紙は驚がく情報を入手した。大会直前に世界のフィギュアスケート界を騒然とさせた「妨害報道」の"黒幕"は何とキム・ヨナの母だというのだ。
●ヨナ世界最高得点∨
注目の女子フリーは、ショートプログラム(SP)3位の真央がトリプルアクセルで転倒。122・03点、合計188.09点の4位に終わった。表彰台を逃したのは2003年12月の全日本選手権以来、実に27試合ぶりだ。やはり大会前の「妨害騒動」の影響があったのか…。「来シーズンは毎回毎回の試合でパーフェクトな演技ができるようにしたい。トリプルアクセルはすごく跳びたかった」と唇をかむしかなかっか。
一方、SP首位のキム・ヨナは、国際スケート連盟主催の大会では女子初となる200点越えを達成し世界界最高得点で初優勝を飾った。
ところが最後の最後で本紙は「妨害騒動」に関する驚くべき情報を入手した。韓国のテレビ局SBSが4大陸選手権(2月、カナダ・バンクーバー)の練習でキム・ヨナが日本選手に妨害されていたと報じ、フィギュア界を揺るがす事態になった騒動について真央に近い関係者はこう明かす。
「SBSの報道はヨナの母親が『日本人に妨害された』と話したのが根拠になっているみたいなんです。大きな反響があったから、(お母さんは)SBSに『なんで(発言を)流したの!』と怒りまくっているらしい」。
日本スケート連盟の質問状に対し、韓国連盟は当たり障りのない回答のみで真相については説明しなかったが、問題となった「日本人に−」というのはキム・ヨナ本人ではなく、母バク・ミヒさんの発言だったというのだ。
事の真偽を探るべく本紙は韓国SBSのリポーターでキム・ヨナのインタビューを担当したリー・スンフー氏を直撃。するとスー氏は真相について「これ以上騒がせたくない」としながら静かに口を開いた。
「キムのインタビューは拠点のトロント(カナダ)でお母さんを交えて行いました。『日本人に—』というのはSBS側が付け加えたものです」
●反日感情をあおる?
リー氏によればインタビューでキム・ヨナは「4大陸選手権の練習でジャンプをするとき、ほかの選手が気になった。危ないのでみんな気をつけなければいけない」と話したという。それを受け、SBSは4大陸選手権の映像を確認。すると、キム・ヨナに近づいた選手の中には日本選手...
小泉一派に粛清の嵐 小泉ブレーン・高橋洋一東洋大教授を窃盗容疑で書類送検 2 |
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小泉一派に粛清の嵐 小泉ブレーン・高橋洋一東洋大教授を窃盗容疑で書類送検 2
2ちゃんねるに投稿されたID:NQOqmxxB0氏の記事
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■現在まで確定している事実(目撃情報ほか:まとめ)■ ※一部相反情報あるも、ほぼ確定
・被害者は警察OB?らしい(取材拒否)
・ロッカーから出てきた時計はブルガリではない、もっと安物(時計ヲタ目撃情報)
・捜査員は、午後5時くらい(犯行の3時間以上前)から張り込み
・高橋氏、午後8時ころ浴場に入った後、何者か(管理者?)が高橋氏のロッカーを開けて高級時計とサイフをぶちこむ
・捜査員と思われる数名がビデオカメラ設置及び作動
・高橋氏風呂からあがる。ロッカーに不審な時計発見
・捜査員一斉に高橋氏に飛びかかり検挙
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捜査員:盗んだんじゃないか?
高橋:見たこともない時計です
捜査員:ロッカーから出したとこ、ビデオに映ってるよ?物的証拠あるんだ
高橋:知らないものは知りません
捜査員:あ、テレビで有名な高橋さんですね。とりあえず窃盗を認めないと逮捕拘留ですよ。
高橋:え?
捜査員:テレビ沙汰になったら困るでしょう。容疑を認めれば書類送検で済みますから。
高橋:(じゃあ認めます)というような趣旨の言動。以降任意同行で目撃情報なし
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警視庁記者クラブのリーク「いい時計だったので、どんな人が持っているのか興味があり、盗んでしまった、と供述しているという」←どんだけ不自然な供述なんだよw
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クラブ申し合わせ「リーク情報どおり一文字一句同一報道。抜け駆け厳禁」協定あり ←■今ここ
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ID:NQOqmxxB0氏の推察は大体的を射ているだろう。
実際に豊島園庭の湯に防犯カメラがあるかどうか質問した者もいたが、豊島園側は「ない」と返答したようだ。
勿論、今後の警察の圧力でどうにでもなってしまう問題だが…。
大方の日本人は馬鹿である。
テポドンがヤラセであることも気付かないし、小沢秘書の逮捕が国策捜査であることも気付かない。今回の事件も単なる窃盗事件と思ってしまうだろう。
正確には、「見ざる聞かざる言わざる」という江戸時代の庶民丸出しの根性で、為政者のやることに疑問も持たず口を挟まない習性がこびりついているのである。
為政者にとってこんな扱いやすい国民も珍しいだろう。
塩は麻薬のような物質? 気分を高揚させ麻薬中毒に匹敵する - (*゜∀゜)ゞカガクニュース隊 |
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ある食べ物が身体に良いという話はよく聞きますが、アメリカの調査結果によれば、パンは危険な食べ物だということが分かりました。パン食が増えている日本も他人事ではありません!
その驚愕の事実をご紹介します。
1) 犯罪者の98%はパンを食べている。
2) パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
3) 暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
4) パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をする
と、2日もしないうちにパンを異常に欲しがる。
5) 新生児にパンを与えると、のどをつまらせて苦しがる。
6) 18世紀、どの家も各自でパンを焼いていた頃、平均寿命は50歳だった。
7) パンを食べるアメリカ人のほとんどは、重大な科学的事実と無意味な統計の区別がつかない。
イチロー頑張れ、自公の汚い国策捜査に負けるな!警察国家なんてまっぴら御免 。民主党内腰の据わらぬ奴はこの若者の文を読め。 ROMが好き |
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政権交代への正念場です
〜民主党内の、腰の据わらぬ諸氏へ〜
今回のあからさまな権力からの市民・国民への攻撃(攻撃されているのは小沢代表ではないのです。おそらく日本の歴史上初めて、まっとうな手段で民衆の手による大変革が実現する、その最後の段階で仕掛けられた権力による民衆の希望への攻撃なのです)に対し、小沢代表は毅然と、見事に反駁しました。心強さを感じました。
ところが、あろう事か、ともに権力に立ち向かい、その悪しきたくらみを粉砕すべき民主党内の同志から、権力側のあまりにも粗雑なシナリオを補完するようなとんちんかんな反応がマスコミを通じて伝えられ、開いた口がふさがりません。
小沢代表が少しでもぐらついた態度をとっているなら話は別です。
「自分の方にまったく問題はない。求められれば、いついかなる場所でも疑問にお答えする。立証責任は検察側にある」これほど明快な説明はないではありませんか。
眉唾の世論調査の数字は、同志であるにもかかわらず腰の据わらぬあなた方の態度から導かれていることを認識してください。
検察・警察(決して「司法」ではないですよ。「行政」に属する権力装置です)は誰を、何を守るものなのか。
戦前はいうに及ばず、戦後も(特にロッキード以降、さらに小泉以降は加速して)、国民はいつそれが理不尽に自分に向けられるかとおそれています。
「政権交代」への期待のうち一部は(様々な具体的なバラ色の政策にもまして)、その息苦しい「警察国家」の芽を、新政権が(行政改革の一側面として)どうにか摘んでくれるだろうか…という期待が絶対に含まれています。
だからこそ、こんなあからさまな権力犯罪に対して「断固戦う」と表明した小沢代表を心強く思うのだし、「政権交代」実現の先頭に立つべき民主党の諸氏が一丸となって小沢代表と心を一つにしてほしいと、切に願っているわけです。
手遅れにならないうちに、意思統一してください。
「説明不十分」「政治と金の問題はどこから見ても後ろ指を指されることなく、徹底してクリーンに」こんな後ろ向きのコメントは、決して外部にではなく、党内で、また直接小沢代表なり、代表を肯定的に認めるスタッフ・役員なりに向けてください。
ただし、自らの資金管理にありの穴ほどの瑕疵もないことを自己点検した上でコメントすること。
民衆は(少なくとも小泉のいう「B層」はいざ知らず)馬鹿ではありません。
■d-11-3 イエズス会の正体③ |
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2006-09-28
引き続き『バチカンの暗殺者たち』(エリック・ジョン・フエルプス著)より引用します。
(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。
将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!
常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。
将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。
1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。
この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。
1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。
天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。
親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。
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■d-11-2 イエズス会とフリーメーソン |
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2006-09-27
米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。
イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。
日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。
将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。
1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」
そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
(つづく)
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■d-11-2 イエズス会とフリーメーソン |
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2006-09-27
米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。
イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。
日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。
将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。
1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」
そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
(つづく)
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■d-11-1 イエズス会とフリーメーソン |
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2006-09-26
フリーメーソンに続いては、バチカンについてみていきたいと思います。
バチカンは、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地で、いわばカトリックの「総本山」です。
バチカンの統治者はローマ教皇であり、ローマ教皇庁によって統治されています。
バチカン市国の面積は0.44平方kmと、ほぼ東京ディズニーランドと同じくらいの世界最小国ですが、中国にも匹敵する10億人以上の信徒を全世界に有している一大勢力であり、また、信徒の中には国家元首クラスがたくさんいるので、その情報力および外交力そして影響力は世界でもトップクラスなのです。
『アメリカ ネオコン政権 最期の強敵 バチカン』によれば、そのようなバチカンの重要性を最も認識していたのは昭和天皇であり、太平洋戦争勃発のおよそ二ヶ月前に、当時の木戸幸一内大臣に「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのように和平工作を進めるのか、今から考えておくように…。そのためにはバチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、すみやかにその手配をするように」と密命を与えたということです。
昭和天皇が誰よりも国際情勢に精通していたことをうかがい知ることができるエピソードではないでしょうか。
さて、そんなバチカンを支える強力組織がイエズス会*1です。
※イエズス会については『キリスト教は植民地支配の先兵だった』もご参照ください。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。
イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本−文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだ」と答えた。
1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?
小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。
「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震え戦(おのの)いた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」
小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。
ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
■d-10-5 三菱フリーメーソン説⑤ |
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2006-09-24
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.5』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
亡国日本の悲しみ
1945年8月6日、西太平洋テニアン島の基地を発して広島上空に到達したB29「エノラ・ゲイ」が原爆「リトルボーイ」を投下、一瞬の内に、広島全市の6割が破壊しつくされ、爆心地から半径500・以内の人々はほとんどが即死した。
1950年の広島市役所発表によると、死者は推定で24万7000人。
残された原爆症患者をはじめ被害者の数はこれを大きく上回る。
8月9日、広島に続いて、長崎にも原爆「ファットマン」が投下された。
長崎では、7万3884人が死亡し、7万4909人が重軽傷を負った。
8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日正午からのラジオ放送で、天皇自らが録音した終戦詔書の「玉音放送」が流れ、国民は戦争が終わったことを知る。
太平洋戦争によって日本は旧植民地、属領等の領土45%を喪失し、残された国富も空襲等による直接・間接の損害を受けた。
敗戦時における日本経済の被害額=損失額を経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によって概観すると、戦死、戦病死者は陸軍114万人。
海軍41万人、空襲等による死者30万人、負傷行方不明者を加えると合計253万人。
在外邦人等を加えて300万人近いと推測されている。
物的被害のうち領土は旧植民地、属領等を49%喪失し、一般物的資産は空襲による建物、生産設備、公共施設、船舶等の破壊焼失による直接被害=損失は487億円(終戦当時価格)、間接的被害=損失が156億円で、直接間接の戦争被害=損失は643億円になる。
純軍事的資産の損失は艦艇、航空機等404億円。一般兵器296億円、合計700億円を喪失しているので、これを加えると物的資産の損失額は1340億円となる。
海外引揚者と復員によって敗戦後2年間に600万人をこえる人口増、その上に軍需会社からの大量解雇が加わって、潜在失業を含めて1300万人をこえる失業者などの諸条件が重なりあい、ほとんどすべての人は竹の子生活を余儀なくされていた。
占領行政下の日本経済は二つに区分して考えることができる。一つは「傾斜生産方式とドッジ・ライン」の時期であり、もう一つは「朝鮮戦争特需と独禁政策緩和」の時期である。
昭和20(1945)年8月の敗戦から25年はじめのドッジ・ライン実施までの時期は、戦後の混乱によるインフレーションと傾斜生産方式による経済運営が行われた。
傾斜生産方式とは、アメリカの援助によって重油を輸入し、まず鉄鋼を増産し、炭鉱へ鋼材を重点的に配給し、それによって石炭の増産をはかり、さらに鉄鋼の生産にその石炭を特別に増配するという経路を通して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に増大させ、それを起動力にしてインフレによる日本経済の縮小再生産をくいとめ、逆に拡大への道を一歩踏み出そうと意図したものであった。
■d-10-4 三菱フリーメーソン説④ |
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2006-09-22
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.4』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め計画されていたものだった。
1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュー・メロン(1855〜1937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長官)と会談した。
1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。
その翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。
この時すでに株の暴落は準備されていたのである。
しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。
J・P・モルガンとクーン・レーブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持っていた。
この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。
彼らは来るべき暴落の通知を受け、ジェネラル・モーターズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除いた他の株は全て売却した。
これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち直した。
以前の恐慌の時と同様に、事情通のウォール街と外国の相場師たちは、確実優良・一流証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。
1929年の大恐慌では、マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。
1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。
トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりする無比の機会であった。
1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断ったために引き起こされた。
1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億6827万6854ドルだった。
32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルとなった。
価値総額にして740億ドル、率にして29年ピークの実に82%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
■d-10-3 三菱フリーメーソン説③ |
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2006-09-20
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.3』からの引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
さて次の章に移る前に、高橋是清が募集した第2回4分利付英貨公債がその後どうなったか見ておこう。
この第2回4分利付英貨公債が昭和5年5月に、5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債に借り換えられたことはすでに述べた。
満州事変勃発以来終戦に到るまで、新規外債の募集は行われなかった。
日本は国際資本市場から隔絶するに到ったから、例え、募集の意志があったにしても、実現不可能な情勢におかれたのである。
言い換えれば、満州事変勃発時点で日本の敗戦への道筋は決定していたということになる。
戦争に負けるであろう国に金を貸す程、英米銀行家もお人好しではあるまい。
したがって、政府外債としてはこの昭和5年5月の5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債、また、民間債としては、昭和6年7月、台湾電力株式会社5分半利付米貨公債の発行が最後であった。
昭和16年(1941)12月太平洋戦争突発当時における外貨債の未償還額は、国債においては米貨債1億5265万ドル余、英貨債7714万ポンド、仏貨債8934万フランであった。
これに地方債および社債の分を合わすと、米貨債2億8334万ドル、英貨債8844万ポンド、仏貨債3億3716万フランであった。これを、仏貨債は除いて、米・英貨債だけについて、当時の為替相場により換算すると、約27億円に上っていた。
しかし、このうち約半額の13億6000万円は日本人所有のものであって、他の半額13億4000万円が連合国人所有のものと推定された。
昭和18年(1943)年1月、第81議会に外貨債処理法が提出され、2月25日両院を通過して、3月15日公布施行された。
この処理法に基づいて、外貨債は大部分、昭和18年9月15日をもって邦貨債に借り換えられるか、または政府においてその元利払義務を承継し、したがって、物上担保等原契約の効力は抹殺されることになった。
かくて、邦貨国債に借り換えられた外貨国債の額は、米貨債は1億3100万ドルで、その未償還額の85.9%、英貨債は2500余万ポンドで、その未償還額の33.1%にあたり、邦貨換算計7億400余万円が3分半利国庫債券に借り換えられたのである。
外貨地方債および社債も、国債同様に、邦貨地方債および社債に借り換え、また、発行者またはその承継者手持ちの自己債については消却されたのであるが、借換または消却されなかったものは、一括して政府において元利払義務を承継した。
終戦時の昭和20年8月末の累計国債残高は1233億円(日華事変、太平洋戦争中の発行高は1059億円)、昭和20年までは1439億7188余万円である。
うち内国債は1399億2446余円、国債総額に占める割合は97.2%、外国債は8億8742万余円、0.6%である。
内国債がいかに巨額な数字であるかは、当時の国民所得が900億円であることからも窺い知ることが出来る。
■d-10-2 三菱フリーメーソン説② |
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2006-09-18
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.2』からの引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
次に金解禁について見ていこう。
浜口内閣の大蔵大臣に就任したのが、井上凖之助であった。
井上凖之助はすでに横浜正金銀行頭取、日銀総裁、大蔵大臣を歴任し、自他ともに財政・金融の最高の専門家として任じていた。
井上財政と幣原外交は、浜口内閣の政策上の二大両輪であった。
前者が英・米両国財界の支持のもとに金解禁を推進したという点と、後者が英・米と妥協してロンドン海軍軍縮条約を成立させた点において共通の地盤に立ち、かつ、浜口内閣において両者は有機的に結びついている。
では、井上凖之助が実施した金解禁とは何だったのか。
それが日本経済に与えた影響とはどのようなものだったのだろうか。
金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にすることである。つまり、金本位制への復帰である。
金本位に復帰しても金貨そのものの輸出を自由にしない国もあったが、日本の金解禁の場合は、国際間の金の移動を自由にすることを意味した。
1917年(大正6)9月、アメリカは、欧州大戦(第一次世界大戦)に参加するとともに、金の輸出を禁止した。
日本もそれにならって、その10日後に金本位から離脱した。
当時、日米両国の財政当局は、金本位停止は、第一次大戦という異常事態に対処するための一時的な措置と考えていた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
日本は大正11年から金解禁問題が取り上げられ、加藤友三郎内閣の蔵相市木乙彦(第10代日銀総裁)は蔵相官邸で、財界金融界の有力者を集めて会議を開いた。
国際的にも、ジェノア経済会議等で、金本位復帰の必要が強調されていた。
ところが、1923年(大正12)の関東大震災で金解禁論は頓挫した。
1925年、イギリス、オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国が、次々と金解禁に踏み切った。
日本は、各国に立ち遅れたという事態に陥った。
そこで1926年、若槻憲政会内閣の蔵相片岡直温が、金解禁に着手しようとして、震災手形善後処理法案その他の法案を議会に提出して、金解禁に踏み切る準備が整えられた。
しかしこの議会中に、昭和2年の恐慌が起こって、この方策も挫折した。
■d-10-1三菱フリーメーソン説① |
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■d-10-1 三菱フリーメーソン説①
2006-09-16
三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎がフリーメーソンのトーマス・グラバーと深いつながりがあったことは『明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影』の中で触れました。
また、天皇と三菱がビジネスパートナーであったことは『天皇の蓄財①』で触れました。
『天皇のロザリオ』には、
(大正13年)今や、頭山満が天皇の最大にして最高の賓客となった。古代宮廷主義がここに復活し、軍人と右翼(やくざと浪人)が宮廷を支えるということになった。中村雄次郎に代わり、大久保利通の二男の牧野信顕が宮内大臣となった。牧野は一味の右翼理論家の小尾晴敏、安岡正篤を宮中に入れて、皇居の旧本丸内に社会問題研究所をつくった。
翌年、大川周明がこの研究所の同人となると、その名を大学寮と改め、大正デモクラシー運動への対策を練った。また、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次などの軍人も参加し、民主主義風潮弾圧の策を練った。
この寮に、陸海軍の若手将校たちが出入りし、三菱財閥が巨額の金を彼らに渡し、美女と美酒におぼれさせていくのであった。2.26事件で北一輝と共に死刑となった西田税がこの大学寮で若手将校たちに軍事学を教えていたのである。日本の右翼は大学寮から生まれたのである。右翼たちは天皇と深く結びついていくのだ。
頭山が三菱財閥と結びつき、天皇から「浪人の元老」という資格を与えられる。北は失意のうちに三井財閥と結びつく。三菱は軍需産業を拡大し、邪魔者の排除を頭山に依頼する。満州支配のスケジュールは三菱と頭山一派の合作である。
頭山は三菱から、北は三井から金を貰い、その金でテロリストの壮士や浪人や将校を誘惑したのである。女が欲しい奴には女を、酒が欲しい奴には酒を、金が欲しい奴には金を投げ与えた結果が2.26事件であった。そして、こんなテロリストたちの首領によって政治が支配されていき、太平洋戦争へと進んでいったのである。
という記述もあります。
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.1』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
三菱財閥
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人(最下級の武士)である岩崎弥次郎の子として、天保5年(1834年)12月に生まれた。
慶応2年(1866)、弥太郎は土佐商会主任として長崎に赴任した。
土佐藩直営の産業振興機関「開成館」は、藩の物産を売りさばくと同時に、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎にそれぞれ出先機関を設けていた。
これが後の大阪土佐商会、長崎土佐商会となったのだ。
土佐商会の主な取引先は、英国のグラバー、オールト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュート、ベルギーのアデリアンなどの各商会で、買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった。
■d-9-2 天皇は英国王の臣下であった? |
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2006-09-14
EIR誌のリンドン・ラシュールによれば、16世紀のはじめ、ヴェネチアの金融寡頭権力は、その本拠地をアムステルダムへ、そして次にロンドンに移し、16世紀後半のヘンリー8世の時代、イングランド王室を支配下に収めたということです。
もちろん、この金融寡頭権力とはユダヤ国際金融資本のこと。
特に、1815年のワーテルローの戦いでネイサンが仕掛けた“罠”により、旧来の貴族のほとんどが破産してからは、イギリスの上流社会はロスチャイルド人脈によって乗っ取られたようです。
さて、ガーター勲章(The Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始されたイングランドの最高勲章とされています。
勲章と訳されている「Order」ですが、英語では騎士団を指す言葉として「Order」が使われます。
上下の序列を持ち、規則を持った、組織化された騎士の結社という意味を持っています。
つまり、ガーター勲章を授与するということは、“イギリスのナイト”として最高の名誉であるガーター騎士団の一員に任命するということになるのです。
明治天皇は、日露戦争後の1906年、英国の国王エドワード7世の代理として来日したコンノート公(国王の弟でフリーメーソン)からガーター勲章を授与されました。
大正天皇は1918年にジョージ五世から、昭和天皇は1929年に、平成天皇も1998年に授与されています。
日本人から見ると“友好の証”のように思えるガーター勲章ですが、英国王から見れば、ガーター勲章を授け、騎士団の一員に任命するということは、「日本の天皇を“大英帝国王の臣下”として認める」という行為であったのかもしれません。
もしかすると“親英家”として知られた昭和天皇も、実はそのことを渋々ながらも“承知”していたのではないでしょうか?
「昭和天皇はあくまで政・戦略の統合者として世界情勢と戦況を検討し、統帥大権を有する大元帥として統帥部をあるときには激励、あるときには叱責して指導した」
「天皇の判断、行動どれをとってみても、大元帥としての自覚と軍人としての豊富な知識に支えられていたものであったといえよう」 (山田朗 著『昭和天皇の軍事思想と戦略』より)
結局、ユダヤ国際金融資本に利用された挙句、捨てられたわけではありますが…。
多くの日本人にとって、この推論は「荒唐無稽」でしょうが、明治以降の天皇家と国際金融資本との結びつきや、昭和天皇が日本の誰よりも国際情勢に精通していたこと等からみて、あながち間違ってはいないように思えます。
「天子」と皇族が、それを欺く政府の「姦謀」が、ともに相寄って自ら国を亡ぼそうとしているとすれば、この事だけはどうしても赦すことができない。 (江藤淳著『南州残影』より)
【参考】『天皇破壊史』
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■d-9-1 山本五十六フリーメーソン説 |
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2006-09-13
戦後、通説とされた「陸軍悪玉・海軍善玉論」の真偽を検証した力作『米内光政と山本五十六は愚将だった』によれば、米内光政は、対米戦争に反対した平和主義者としてもてはやされましたが、実は日中戦争を拡大し、停戦の機会を失わしめた張本人の一人であり、悲劇の名将といわれる山本五十六は、ミッドウェー海戦で圧倒的戦力という戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高熟練度という戦術的優位がありながら、戦闘指揮の失敗で敗北した、つまり両人とも戦後の名声とはかけ離れた“愚将”であったとしています。
和平への道を誤ったり、戦勝の機をむざむざ逃したのは、単に両人の能力の欠如ゆえだったのでしょうか?
国際政経学会*1員であった渡部悌治氏は、山本五十六がフリーメーソン結社員であったと指摘しています。
渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』から引用。
山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。(略)
山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。(略)山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、(略)戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。
またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。
山本五十六は1919年5月〜1921年7月までと、1926年1月〜1928年3月までの二度、アメリカ勤務(大使館付武官)をしています。この他にヨーロッパへの長期出張が二度。同時期に駐米大使、駐英大使を歴任していたのが、戦前からフリーメーソンに加入していた松平恒雄でした。吉田茂が駐英中にフリーメーソンに加入したように、山本も、松平に誘われ、フリーメーソンに加入していたことは十分に考えられます。
また、山本と米内は砲術学校時代には同じ部屋に起居している間柄であり、生涯に渡り二人は非常に波長が合ったと言われています。
フリーメーソンとは直接関係ないかもしれませんが、英米に取り込まれていた可能性があるのは山本や米内だけではないようです。
渡部悌治氏は、英米の対日工作費が右翼に渡されたルートとして、
英米の対日工作費→張学民経由→キリスト教矯風会の子女→大川周明・赤尾敏
英米のエージェントであった巌本善治→正則中学校の今岡信一郎→関東国粋会の梅津勘兵衛
などを挙げています。
クーデターにはアメリカ、ユダヤから金がきていた。2.26事件には三井財閥の金も動いている。北一輝には三井の池田成彬から月々の手当てが出ていた。それで池田には行動決行の電話がいち早く届いている。5.15事件も、2.26事件も、他のクーデターも、いずれの場合も、第三国の金が動いたのである。
2.26事件の資金は、久原房之助から出ていた分のルートも分かっている。(略)久原の背後にあって久原に資金を調達していた者が誰か、ということも考えてみなければなるまい。
■d-8-7 日本フリーメーソンの内幕⑦ |
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2006-09-12
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
日本メーソンの敗北
『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。
いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。同書によると、
「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。
1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」
という。
天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。
戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。
「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。
第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」
フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。
もちろん、フリーメーソンの日本での発展がなかったことは、他にもいろいろな要因が考えられるが、何といってもフリーメーソンの教義*1が持つ宗教性が、キリスト教と同じく日本人に適さなかったのであろう。
現在、日本にはグランド・ロッジの下に20のロッジ(支部)がある。これは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。
■d-8-6 日本フリーメーソンの内幕⑥ |
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2006-09-11
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
失敗した天皇入社
日本人のフリーメーソン創設期の事情を知る一人に芝金平氏(朝日イブニングニュース社相談役)がいる。
「私とか村山有さんなんかが始めたとき、日本人はほんの五、六人でした。フリーメーソンということではなく、日米親善の組織として集めました。当時、水交社にアメリカのメーソンがたむろしており、中心人物はマイク・リビイスト氏たちだった。彼らから日本人のメーソンを作らないかと話があり、村山有さんがGHQにかけあいに行き“宗教団体としてならよろしい”となりました。
それで私らが日本のメーソンの発起人になり、東久邇宮さんとか主だった人々を集めたのです。私たち初期メンバーは一位階のメーソンでしたが、一晩で昇進させられました。英語で儀式用語を暗記するんですよ。今は日本語でいいが当時はあくまで英語でした。それから水交社を払い下げてもらったが、これは正確にいうと“盗んだ”みたいなもので後に水交社側と示談になりました。マイク・リビイストたちが仕組んだことです。そういうやり方が私はおかしいと思ってトルーマン大統領がメーソンだというので直訴したんだ。すると日本のメーソンはフィリピンの管轄下だからそちらへ言えと返信がきた。そしてフィリピンから調べにきたが、結局ウヤムヤになってしまった。
日本人のメーソンといったってコントロールしていたのは一部の外人でした。イタリア人のリビイストとかが水交社ビルを使って金儲けをしており、“話が違うじゃないか”と私はやめました。当時、日米親善といえばみんな乗ってきましたし、東久邇さんや鳩山さんにしろ他の政治家の多くもうまいことがあると思って集まったのですよ」
フリーメーソンの高尚な教義にもかかわらず、日本人メーソンも外国メーソンの指導者たちもかなりいかがわしい行状があったようである。フリーメーソンを日本で定着させ、拡大させるには天皇の入会がキー・ポイントであった。前出の宮中工作と同時期、日本人メーソンの笠井重治氏のもとにもマッカーサー元帥からの次のような要請があった。
「マッカーサーから手紙がきて“メーソンのアジアというものを作りたい”といわれた。私は“いいと思う。日本ではメーソンは誤解されているが、世界との友情に必要だ”と答えた。するとマッカーサーが、“重要な会合なので天皇を加えたい”という。私は“それは無理だが皇族なら何とか”と答え、当時総理大臣だった東久邇宮を訪ねた。
マッカーサーがフリーメーソンに天皇や皇族を加入させたいという意図は、日本の支配者だからというものでした。私が当時無理だといったのは、フリーメーソンへの悪いイメージがあったからで、今ならおかしくないし、反対もしません。東久邇さんのもとへはリビイストを連れていって話をしました。東久邇さんが入会してから二、三年後、佐藤尚武、植竹悦二郎他が入会したが、みんな私が説得したんですよ。もう一方では芝金平さんが日本人メーソンを集めていました。ちょうどそのころ、アメリカの将校たちが旧海軍の水交社にいたので、私が日本政府に交渉して日本グランド・ロッジにしたのです」(笠井重治氏の話)
笠井重治氏は山梨県出身の代議士で、1950年1月7日入会、No.2ロッジに属した。国際産業(株)社長、日米文化振興会会長、フィリピン協会理事などをしている。戦前、シカゴ大政治学科、ハーバード大学院を卒業、親米派の人物だ。
『マッカーサーの二千日』(袖井林二郎)によれば、笠井氏は戦後すぐGⅡのウィロビー部長への有力な情報提供者であり、占領政策の「友好的日本人」と評価されていて、マッカーサー元帥とも知人であった。また、マッカーサーの記念館を作ろうとの運動を起した人物でもある。
笠井氏の話では、
「メーソンの資格はこれといってないが、戦前の日本人でメーソンになれる人は少なかった。アメリカでは銀行の頭取とか社会的有力者ばかりが入会していました。私がマッカーサーと話して日本のメーソンを独立させたのです」
ということである。
芝金平氏、笠井重治氏の談話にも二度名前が出てくるマイク・リビイスト氏とは前出の天皇入会の宮中工作を担当していたメーソンの大物だ。1949年にアメリカからフリーメーソンの視察官として来日、マッカーサー元帥の腹心の軍人(大尉)であった。天皇工作がなぜ実現しなかった...
■d-8-5 日本フリーメーソンの内幕⑤ |
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2006-09-10
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
フリーメーソンの宮中工作
村山氏の本からもう少し続ける。
鳩山一郎氏は公職追放中だったが、マッカーサー元帥の肝入りでフリーメーソンの門戸が開いたと聞き、村山氏を訪ねて入会を希望、「フリーメーソンの精神を日本人にも大いに理解させなくてはいかん」と大変に力を入れた。やがて公職追放がとけ、総理大臣になるとメーソンの第3位階に昇進、水交社で200人近いメーソン兄弟の祝福を受けた。そのとき鳩山氏は次のようにあいさつした。
「戦後日本において幾多の社会的変化がありました。そのなかでフリーメーソンの門戸が開かれたことは最も大きな出来事であります。私は世界幾多の指導者や元首が対等の資格で会員であるフリーメーソンの一員として、日本グランド・ロッジの年会に出席する機会を光栄に思います。
フリーメーソンが民主主義精神の根本を教え、アメリカの独立をはじめとして自由と平和のために闘ってきた数多くの先覚者は、みなメーソンでした。この友愛精神が新しく日本をもつなぐ大きな力となったことを考えましても、この精神を讃えずにはいられません。マッカーサー元帥は私ども日本人にこの友愛結社の門戸を開き、また占領軍の多くのメーソンは実際に兄弟愛の何物であるかを実践してくれました。
占領初期から今日に至るまでのマッカーサー、リッジウェイ、クラーク、ハル、レムニッツアならびにアリソン大使は、いずれもメーソンであります。日本にこの会が結成されて数年を経ていますが、この間に日本語のみの関東ロッジが認められたことを喜ぶものです。4000年の歴史を有するフリーメーソンが日本で実を結んで、今日に至ったことを誇りに思います」(昭和31年6月5日)
村山氏があげている初期の日本人メーソン(前出の他)では、浅地庄太郎(日本ビルサービス株式会社社長)、二宮順(朝日新聞記者、ボーイスカウト運動)、李垠(旧皇族の李王)、東ヶ崎潔(1950年入会、No.2。ジャパンタイムズ社長、ボーイスカウト運動に活躍、ロータリー・クラブ国際会長。1960年日本のグランドマスター)、植田優、吉井寿雄(貴族院議員吉井勇の息子、松本滝蔵の親族)、武田修、島内敏郎(外交官、サンフランシスコ講和会議の委員)、長田政次郎、北川正恵、小田春海、犬丸徹三(元帝国ホテル社長)、堀内貞一 (神奈川菱油取締役、新日本産業設立、社長。1959年日本のグランドマスター)、山本勝夫、増山吉成がいる。
村山氏も述べているように日本のフリーメーソンは、マッカーサー元帥はじめ占領軍高官とアメリカの戦後政策(新日本建設)が合致して強力に推進させられたと考えられる。“フリーメーソン・ライブラリー”所蔵の『日本のフリーメーソン百年史』(日本グランド・ロッジ編)の中でもそのあたりの“政治の裏面”が記録されている。以下、同書にそって追ってみたい。
「フリーメーソンに対する嫌悪感を生ませた軍国主義者のやり方を私はアメリカのメーソンに説明した。アメリカのメーソンの人々は、日本の若い世代の心にヒューマニティとデモクラシーの精神による日本の再建策として非常に重要な戦後計画であるスカウトを支え、援助することを日本の指導者と政府の役人に約束した。私はフリーメーソンの真実の姿を、日本の皇族とトップ・リーダーに紹介するために働きかけた。
そして東久邇宮(天皇の叔父、戦後の首相)が兄弟、友愛の真実を学ぶためにフリーメーソンの“忠実な奉仕者”になることを表明した。彼は少数の日本人希望者と共に、加入申請書を出し、最初の日本人となった。プリンス・李垠(夫人は皇后のイトコ)も私どもと共にメーソンとして歩んでいる。このことが佐藤尚武、高橋龍太郎、鳩山一郎、河合弥八、三島通陽ら日本人リーダーを含む人々の入会を納得させるのに役立ったのである」(同、1955年、ワーナー・P・シュトリング氏記述、日本のメーソン指導者)
マッカーサー元帥は、フィリピン管轄下の日本のフリーメーソン組織をフィリピン側の反対を押し切る形で独立させる働きをした。 「日本人にまかせるようにしなければいけない」と考え、そのため日本人フリーメーソンを「これこそ一晩で上級位階にする処置を取った」(芝金平氏。後述)。日本のフリーメーソンを発展させるため、マッカーサー元帥はまず皇族を入会させ、次に日本の指導層を獲得、最後に天皇を会員とする腹であった。
戦前からアメリカのメーソンで日本通の人々は、「アメリカ人に対し、天皇を理解せよ」と説いたが、今度は天皇の方からフリーメーソンに対して「大いに興味を持たれた」という。天皇の耳にフリーメーソンを吹き込み、勧めたのは次の人々である。
■d-8-4 日本フリーメーソンの内幕④ |
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2006-09-09
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
日本の著名メーソン
フリーメーソンの“カード”から、すでに故人となった著名な日本人メーソンを拾ってみよう。
鳩山一郎…1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号、以下同じである)、元首相、昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。
浅野良三…1951年9月20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。
加納久朗…1950年4月3日入会、No.2。吉田元首相の親族として財界側のスポンサー、「不明の外資を導入する男」(『真相』)といわれた。子爵、元横浜正金銀行重役などの戦後財界人。
河合弥八…入会、ロッジ番号不明。元参議院議長、鳩山自由党に参加した保守政治家として有名。
弘世源太郎…1961年4月10日入会、No.1。元日本生命常務、父・現氏が同社社長、妹の正子さんは旧皇族の久邇宮朝融王氏の子息、邦昭氏と結婚。財界の“名門”といえよう。
小松隆…1950年8月8日入会、No.2。元日本鋼管重役、吉田茂日米協会会長時の副会長、後に同会長。ロータリー・クラブの評議員、会長でもある。
田中元彦…不明、No.11。前出の藤山愛一郎氏の実弟、日本NCRの顧問、菱和航空サービス(株)会長、日本アドレソグラフ・マルティングラフ(株)取締役。プリンストン大卒の知米派だった。
村山有…1950年9月8日入会、No.11。元朝日新聞記者、ジャパンタイムズ編集長、幣原首相のGHQとのパイプ役といわれた。戦争中は陸軍中野学校と組み、対米謀略放送に従事、戦後、ボーイスカウトの再建に活躍、アメリカ生まれの二世。
村田五郎…1950年9月8日入会、No.2。ジャパンタイムズ重役、元群馬県知事、元内閣情報局次長、日本会会長。
松本滝蔵…1950年9月8日入会、No.2。広島県出身の代議士。マッカーサー元帥後援の日米親善野球の日本側委員長。
佐藤尚武…1950年一月五日入会、No.2。終戦時の駐ソ大使、戦後代議士。元衆院議長、元外相で、外交界の長老であった。神社本庁の総代会会長に就任、国家神道の再建に貢献した。
野田俊作…1950年3月28日入会、No.2。政友会の父、卯太郎の地盤を継ぎ、代議士。松野鶴平代議士と義兄弟の間。
山下太郎…1950年4月3日入会、No.2。俗に“満州太郎”“アラビア太郎”との異名を持つ財界人、山下汽船の社長。
下条康麿…1950年3月3日入会、No.2。元文部大臣。子息が下条進一郎現代議士である。
植竹悦二郎…1950年1月5日入会、No.2。長野県出身の代議士、戦前の内務大臣、戦後憲法をGHQと会談、作成に協力した。吉田、鳩山政権に参加、リベラリストだったが反共主義者としても有名。
山岡萬之助…不明、No.11。元貴族院議員、日本大学の“中興の祖”といわれる名総長だった。戦後、GHQにより公職追放。
■d-8-3 日本フリーメーソンの内幕③ |
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2006-09-08
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
入会者の話
フリーメーソンが「秘密結社ではない」*1の証拠として、私は日本グランド・ロッジの殿堂に案内され、儀式の会場見学を許された。カトリック教会の厳粛さとまた全然違うエキゾチックな雰囲気だ。
三人のメーソンが議長の席、会員の着席順、位置他を説明してくれる。儀式のときは、入口に門番の衣裳で槍を持った男が、謎の問いを発し、正しく答えないと入室できない、という。許しをえて、メーソンのエプロン、帽子ほか衣裳を身につけてみる。何となくテレ臭いが何となく愉快でもある。それで、「勲章とかエプロンとかにテレる人はいませんか?」と聞く。
「いません」と心外そうだった。
儀式のときは、真中の台座上にそのメーソンが信仰する“聖書”を開き、右手をおきメーソンの誓いを口にし、ひざまずく。日本人ならこの“聖書”は仏典でもよいが、ふつうは旧約聖書(ユダヤ教)だ。というのは、メーソンの行事は独自のメーソン暦からなるユダヤ教から由来しているからである。儀式の用語は今では日本語でよいが、儀式の行事などはあくまで古来からのフリーメーソン様式を踏まえるという。
会場の模様は四方に黒い幕がおろされ、外光から遮断されている。中央に祭壇。三隅に奇妙な形のランプ、スイッチを入れると赤紫色の神秘的な光を発する。席は正確に東西南北に配置されており、東側に祭司長の席。その上には木槌がある。机の前に垂らした幕には、海に昇る太陽とメーソンとは切り離せない直角定規の刺繍がしてある。
祭壇をはさんで西側の祭司補席には、山あいに沈む太陽と水準器。椅子の背もたれには、フリーメーソンの象徴である直角定規とコンパスの組み合わせた飾り、述事務局長らメーソンの説明によると、この道具立てのひとつひとつに意味があるのだと説明をしてくれる。たとえば、祭司長席後方の垂れ幕にある「G」の文字はジオメトリー(幾何)のG、ゴッド(神)のG、というようにだ。さらに直角定規とコンパスを組み合わせたマークのある帽子、位階を示す模様のついたカラー、直角定規と神の「眼」が描かれた羊皮製エプロンからなるフリーメーソン独特の服装など、ムード的にいうといかにも秘密結社的である。
日本グランド・ロッジの殿堂内を訪問した外部のジャーナリストは、「あなたが初めて」といわれる。これはジャーナリストが知らないの意ではない。朝日、毎日、ジャパンタイムズなどかなりのジャーナリストが日本人メーソンだからだ。
フリーメーソンは独自の図書館を持っている。それを「フリーメーソン・ライブラリー」といい、全世界のフリーメーソン関係の書物がある。
「フリーメーソンだけの印刷される書を総合すると聖書の発行部数を軽く越えるといわれます」(安藤一夫氏)
この図書館を利用できるのはメーソンの会員のみだが、私は特別に資料を見せてもらった。メーソンの機関紙には『マソニック新聞』があり、各国ロッジの活動などが記載されている。図書館の書物はほとんどが英文で、機関紙も英語と日本文の半々だ。
全国の会員名簿はなく、「各ロッジがそれぞれ持っている」が本部のグランド・ロッジ内にある「名前・生年月日・入会年月日・ロッジナンバー・死亡・退会年月日」という断片的なカードを閲覧する許可を与えられた。このデーターから著名なメーソンを割り出し、入会の動機やフリーメーソンについて取材してみた。
大日本製糖会長の藤山勝彦氏はいう。
「入会は17年前。メーソンでした田中元彦(勝彦氏の実弟。NCRの元社長)に、国際的組織ですし、いろんな有名人が入っているからと勧められました。昇進試験が難しくて私はいまだにメーソンの一番下です。メーソンは社会奉仕をやり、メンバーが兄弟的な団結をもつ立派な団体です。いわゆる社交的なクラブと違い、一つの使命をもって固く結ばれています。しかし、メンバーを拘束することはありません。