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■d-10-1三菱フリーメーソン説①

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■d-10-1 三菱フリーメーソン説①

2006-09-16

三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎がフリーメーソンのトーマス・グラバーと深いつながりがあったことは『明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影』の中で触れました。
また、天皇と三菱がビジネスパートナーであったことは『天皇の蓄財①』で触れました。

『天皇のロザリオ』には、

(大正13年)今や、頭山満が天皇の最大にして最高の賓客となった。古代宮廷主義がここに復活し、軍人と右翼(やくざと浪人)が宮廷を支えるということになった。中村雄次郎に代わり、大久保利通の二男の牧野信顕が宮内大臣となった。牧野は一味の右翼理論家の小尾晴敏、安岡正篤を宮中に入れて、皇居の旧本丸内に社会問題研究所をつくった。

翌年、大川周明がこの研究所の同人となると、その名を大学寮と改め、大正デモクラシー運動への対策を練った。また、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次などの軍人も参加し、民主主義風潮弾圧の策を練った。

この寮に、陸海軍の若手将校たちが出入りし、三菱財閥が巨額の金を彼らに渡し、美女と美酒におぼれさせていくのであった。2.26事件で北一輝と共に死刑となった西田税がこの大学寮で若手将校たちに軍事学を教えていたのである。日本の右翼は大学寮から生まれたのである。右翼たちは天皇と深く結びついていくのだ。

頭山が三菱財閥と結びつき、天皇から「浪人の元老」という資格を与えられる。北は失意のうちに三井財閥と結びつく。三菱は軍需産業を拡大し、邪魔者の排除を頭山に依頼する。満州支配のスケジュールは三菱と頭山一派の合作である。

頭山は三菱から、北は三井から金を貰い、その金でテロリストの壮士や浪人や将校を誘惑したのである。女が欲しい奴には女を、酒が欲しい奴には酒を、金が欲しい奴には金を投げ与えた結果が2.26事件であった。そして、こんなテロリストたちの首領によって政治が支配されていき、太平洋戦争へと進んでいったのである。

という記述もあります。

以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.1』からの抜粋・引用です。

(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)

三菱財閥

岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人(最下級の武士)である岩崎弥次郎の子として、天保5年(1834年)12月に生まれた。

慶応2年(1866)、弥太郎は土佐商会主任として長崎に赴任した。

土佐藩直営の産業振興機関「開成館」は、藩の物産を売りさばくと同時に、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎にそれぞれ出先機関を設けていた。

これが後の大阪土佐商会、長崎土佐商会となったのだ。

土佐商会の主な取引先は、英国のグラバー、オールト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュート、ベルギーのアデリアンなどの各商会で、買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった。

この頃弥太郎は、亀山社中(海援隊の前身)の坂本龍馬と知り合っている。

貧乏育ちの弥太郎と、お坊ちゃん育ちの龍馬は犬猿の仲だった。

弥太郎が土佐商会で交渉を持った外国商人の一人に、トーマス・ブレイク・グラバーがいる。

「死の商人」グラバーはイギリスの大商社ジャ−ディン・マセソンの長崎代理人だった。

グラバーはイギリスのフリーメーソンでもあった。グラバーと弥太郎の関係は深い。

グラバーが出資の面で深く係わっていた高島炭鉱と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三菱に譲渡している。

明治26年にグラバーが住居を東京に移した時、三菱の特別役員となっている。

この時の待遇も破格で、最高役員の二割増の給与を得ている。

グラバーはまた坂本龍馬に大きな思想的影響を与えたことで知られている。

慶応4(1868)年9月8日に年号が明治と改元され10月13日に東京遷都が公布されて、長崎土佐商会は閉館と決定した。

土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐藩の財政を一手に握って権勢を振るった。

土佐藩の財政が外国商人からの借金で補われていて、外国商人と交渉できる人物は、弥太郎以外に誰もいなかったからである。

土佐大阪商会は土佐開成社へと脱皮し、次に土佐の九十九湾に因んで九十九商会になった。

すでにこの時は、藩籍を離れて私企業になっていた。

九十九商会は、紅葉賀と夕顔の二藩船を貰い受けて、海上運輸業を開業することになった。

表面上、弥太郎は九十九商会と無関係ということになっているが、彼は土佐藩の大阪代表として、商会を支配していた。

この頃、石川七左衛門(後の七財)や川田小一郎が弥太郎の部下となっている。

明治4(1871)年7月、廃藩置県の詔書が発せられた。

弥太郎は、藩札を政府が買い上げてくれると知ると、すぐさま10万円分の太政官札を借りてきて、ただ同然に値下がりしていた藩札を買いまくった。

7月14日の相場で、藩札と太政官札を引き換えるということになって、弥太郎はぼろ儲けした。

さて、弥太郎は、藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらった。

そして、川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として会社を作った。

川の字をそれぞれ名前にもっている3人の男の集まりなので、社名を九十九商会から三川商会と改称した。

航路は東京−大阪、神戸−高知間である。

そして競争相手は、郵便蒸気船会社。

これは半官半民の回漕会社で、民間側は天下の富商三井を筆頭に、東京・大阪の豪商や船問屋が資本金を出し合って株主となっている。

これが赤字を出してしまったので、明治4(1871)年、政府は会社の後始末を三井大阪店の番頭吹田四郎兵衛に一任した。

こうして8月になると、三井、鴻池、小野、島田といった富商が株主となって、日本国郵便蒸気船会社(後の日本郵船)が発足した。

明治6(1873)年3月、弥太郎は「三川商会」を「三菱商会」と改称した。

しかし汽船事業は赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。

すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始まった。

ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三菱のみとなった。

しかしこの時、不思議なことが起こった。

政府の公金を扱っていた三井と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田が倒産してしまったのだ。

そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。

そのため日本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。

いったい何が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。

この三井と三菱のダンピング競争は、出来レースだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。

その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。

ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。

政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。

その後、弥太郎は台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。

おまけに台湾航路も開設した。

三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散させられた。

所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。

こうして三菱は所属船舶40余隻という日本最大の船会社となった。

この頃、弥太郎は福沢諭吉と会っている。しかも大隅重信も同席して、以来、この3人はすっかり仲良しになった。

弥太郎がすっかり気に入った諭吉は、慶応義塾の卒業生を多数三菱に送り込んだ。

西南戦争が起こると、弥太郎は兵員と物資の輸送でまたぼろ儲けした。

三菱は船で稼ぎ、三井は陸軍の経理を引き受けて儲け、三井物産は糧食で、大倉組は、紺の脚半や足袋や干物の魚で、藤田組は軍服と靴で巨利を博した。

西南戦争の戦費4200万円のうち、三菱はなんと1500万円、つまり戦費の3分の1を手にしたのである。

こうしたところへ、三井が政府に働きかけて、三菱の独占事業に対抗する船会社が設立されることになった。これが共同運輸会社である。大久保は暗殺され、大隅は失脚していた。

自由党による激しい弥太郎への攻撃が始まった。政府は260円の大金を共同運輸に出資した。

こうして三菱対共同のダンピング競争が始まった。

この最中、弥太郎は癌に倒れた。

明治18(1885)年2月7日、弥太郎は「腹ン中が裂けるようじゃ、もう何も言わん」といって死んだ。享年52歳であった。

三菱と共同運輸の競争は熾烈を極め、3年間にも及んだ。

明治18(1885)年、共倒れを懸念した政府は合併を指令、両社の戦いは終息した。

新会社は日本郵船会社と命名された。新会社は、資本金を1100万円とし、三菱側出資500万円、共同側出資600万円と定められた。

日本郵船の支配権は、当然過半数の株を持つ共同側(三井側)の手中にあるはずだった(株券10万株は三菱に、12万株は共同に交付された)。

ところが三菱側は岩崎に独占集中されているのに、共同側の株主は分散しているうえ、その中にも三菱関係者がいた。

このため、三菱側の持株率は、逆に共同側を上回ってしまったのである。

後に、近藤廉平(元三菱汽船会社横浜支配人)が社長となるに及んで、13回の重役異動を経て、完全な三菱系企業と化してしまった。

ところで弥太郎の死後、弟の弥之助が三菱を引き継いだ。

弥之助は兄の勧めでアメリカに留学している。

弥之助は炭鉱事業に乗り出した。

弥太郎が後藤象二郎から買収した高島炭坑の利益は、弥之助の予測を上回った。

買収してから約5年で、三菱のドル箱となった。

弥之助は、明治22(1889)年には、新入、鯰田の両炭鉱を買収した。

これから筑豊炭田への進出がはじまったのである。

弥之助はここで日本最初の技術を次々と採用した(長壁式採炭法)。

弥之助はまた、金属鉱山にも力を入れた(尾去沢、生野、佐渡、槙峰、面谷など)。

そして石炭と銅の収入源を資金源として、造船を中心とする近代的な重工業財閥へと三菱をリ−ドしていくのである。

政府から払い下げを受けた長崎造船所は、その後次々と6千トン級汽船を建造していく。

しかし良く考えてみれば、当時の日本人だけで最新技術を導入することが不可能であったことはすぐ分かる。

高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、また日本の造船技術の始まりとなったソロバン・ドック(我が国最初の洋式ドックで、入江を利用したスリップ式造船施設)を作ったのは、前出のグラバーである。三菱とグラバーの結びつきは深い。

明治33(1900)年以降は、長崎造船所で軍艦の製造にも乗り出した。

そして弥之助は、鉱山業、造船業と並んで、銀行業、地所事業に乗り出す。

また弥之助は、明治29(1896)年、川田小一郎の急逝の後を受けて第4代日銀総裁に就任している(明治29年11月11日〜明治31年10月20日)。

第3代日銀総裁(明治22年9月3日〜明治29年11月7日)の川田小一郎も三菱人であったことは、既に述べた。

ちなみに、弥之助の後の第5代日銀総裁(明治31年10月20日〜明治36年10月19日)は山本達雄であったが、山本もまた三菱人である。三菱は3代続けて日銀総裁を送ったのだ。

この岩崎弥之助日銀総裁の元で行われた重大な幣制改革が、明治30(1897)年の金本位制の採用であった。

時の首相は財政通、松方正義であった。松方はこの時蔵相も兼務している。

弥之助は松方の金本位制を終始バックアップした。当時、この金本位制には反対意見が多かった。

元老の間では、伊藤博文が反対であった。

「日本では金鉱が少なく、金の産出が乏しい。これでは不可能であろう」というのであった。

安田善次郎などは、「もし金本位制が実現するならば、自分は松方君のために純金の等身像をつくって贈ってあげる」などといってからかった。

だが最終的に天皇の裁断がものをいった。天皇は松方を信じて、金本位制の採用に踏み切った。

日清戦争の賠償金が金本位制採用の準備金となった。

ではその成果はいかがなものであったのだろうか。

「日清戦争のあと、日本と金本位制国との貿易は拡大しつつあった。ことに金本位国から日本に対する輸入が膨張した。しかし、日本はまだ銀本位であったので、銀貨の変動のために不利益をこうむるケ−スがきわめて多かった。しかし、金本位制を採用した結果、このような不利益はなんなく解消をみた。

さらに、金本位制をとったことで、日本は世界市場にそのまま直結することになった。それは外資募集に効果をあげた。外資導入が容易となり、増加することになったのである。拘束状態にあった軍事公債の売却、また三十二年(1899)の四分利付外債一億円の募集についても、みごとな効果をあらわしはじめた。あとあと日本が莫大な軍艦、兵器を輸入でき、かつ日露戦争が勃発したとき、その戦争に必要な巨大な外債募集ができたことなども、いずれも金本位制を採用したからのことであった」(『明治・大正の宰相 松方正義』講談社)

金本位制は日露戦争への道筋を準備したことになる。

戦争が起こって得をするのは、巨大財閥であることはいうまでもない。

ところでこの金本位制が採用された明治30年前後の日本の政界は、弥之助によって動かされたといっても過言ではないという。

明治21(1888)年の黒田内閣は「最初の三菱内閣」であり、明治29(1896)年の第2次松方内閣は「いっそう純粋・透明な三菱の内閣」であり、弥之助はひそかに祝杯をあげたという。

三菱財閥2代目総帥・岩崎弥之助は、明治41(1908)年3月、逝去した。

弥太郎と同じく死因は癌であった。享年58歳であった。

ところで弥之助が43歳の時の明治26(1893)年に、弥之助は三菱合資会社の経営権を、弥太郎の長男岩崎久弥に譲っている。

時に久弥は弱冠29歳、三菱3代目総帥の誕生である。

久弥は明治19(1886)年、22歳の時、アメリカ留学に出発している。

最初の2年間は入学準備に費やし、明治21年にペンシルバニア州フィラデルフィア市のペンシルバニア大学に入学。

5年後の明治24(1891)年にアメリカより帰国している。

久弥の留学先がペンシルバニア大学だったことは非常に興味をそそる。

そもそもペンシルバニア州はクエーカー教徒のイギリス人、ウィリアム・ペンが設立した州である。

そしてペンシルバニア大学の創設者は、かの高名なアメリカ・フリーメーソンであったベンジャミン・フランクリンである。

ところで、アメリカ留学前に久弥は福沢諭吉の慶応義塾に学んでいる。

福沢諭吉と三菱の縁も深い。

3代目社長久弥は自分が表面に出ないで、三菱の「四天王」に経営を任せた。

日本郵船の近藤廉平、明治生命の荘田平五郎、東京海上火災の末延道成、三菱銀行部の豊川良平である。

この4人は、いずれも弥太郎の子飼いであった。

先に戦争で得をするのは巨大財閥であると述べたが、明治27(1894)年の日清戦争、明治37(1904)年の日露戦争でも、三菱財閥は戦時利得の恩恵にあずかった。

この10年間に三菱合資会社は三菱銀行、佐渡および生野鉱山(後の三菱鉱業)、大阪製煉所、神戸製紙所(後の三菱製紙)、福岡県の牧山骸炭製造所(三菱の石炭化学工業の発端)、小岩井農場、東京倉庫(後の三菱倉庫)、唐津炭鉱、神戸造船所(第1次大戦中は潜水艦を建造)などを新たに傘下におさめている。

大正3(1914)年7月に勃発した第一次世界大戦でも、三菱は造船、製紙、鉱業で儲けるだけでなく、投機商品の取り扱いにまで手をのばし、ロンドンとニューヨークに支店を設置して世界貿易に打って出ている。

三井物産や鈴木商店と競合したのだ。

久弥は52歳になった大正5(1916)年7月、副社長の座にあった弥之助の子、小弥太に総帥の座を譲渡している。

三菱は戦争のたびに大きくなったといわれる。

第一次大戦では軍需で多大の利益をあげた。

大戦景気はその反動に見舞われ、大正9(1920)年春、世界恐慌が勃発して日本資本主義も慢性的な不況期に入った。

軍国主義の波が押し寄せ、財閥は格好の攻撃目標となった。

右翼のテロが牙を剥いた。小弥太の数少ない友人の一人である高橋是賢の父親で、小弥太が尊敬していた高橋是清も右翼のテロの凶弾に倒れている。

昭和2(1927)年春、昭和恐慌が発生した。

弱小財閥は軒並みつぶれたが、三井、三菱といった大財閥は独占的地位を確立し、産業、金融における支配力を一段と強めたのだ。

昭和16(1941)年12月、太平洋戦争勃発。

軍部は財閥に戦時協力を求めた。

三菱財閥の戦争協力は、すさまじいものがあった。

海軍艦船、航空機等、軍の要望に応えて、ひたすら増産に務めた。

この戦争で三菱財閥は、戦時超過利潤をあげた。

その先頭には、常に三菱4代目総帥小弥太の姿があった。

敗戦後、小弥太はGHQの財閥解体に反対して、昭和20(1945)年12月2日、悔しがりながら憤死してしまった。享年67歳であった。

久弥はその後も生きつづけ、昭和30(1955)年の12月1日に逝去している。享年91歳であった。

敗戦後、GHQの命令で財閥は解体された、と一般的には思われている。

しかし戦後においても三菱グル−プのまとまりは三井に比べて固い。

三菱系の社員は、『バイ三菱』主義によって、同系の電気・化学製品などを愛好するだけではなく、保険は東京海上火災、デパートは伊勢丹、カメラはニコン、ビールはキリンといった閉鎖的な性格が、戦後の企業集団のなかで最も強いという。

「戦後の日本の財界団体(経団連、日経連、日商、同友会など)の長には、財閥系の経営者はならないという不文律のようなものがあった。

しかし、財閥解体の後、徐々に力を盛り返してくるとともに、特に三菱グル−プの経営者が財界の主導権を握るようになってくる。

財界ではないが、昭和三十九(1964)年に、田実の前の三菱銀行頭取、宇佐美洵が日本銀行総裁に就任したのがその皮切りである。

三菱のサラブレットである宇佐美洵の母よしの兄は後述の池田成彬である。よしの妹なみは、元三菱銀行頭取加藤武男に嫁いでいる。

その後、四十年代に入って、牧田の前の三菱重工社長、河野文彦が経団連の副会長になり、藤野忠次郎(三菱商事元社長−筆者注)も東商副会頭になった。

そして、日経連の会長に、三菱鉱業セメントの大槻文平がなって、財界団体の長は電力や新日鉄等の独立系企業からという“ジンクス”は破られた」(『野望の軌跡』旺文社)

という。

ところで言い遅れたが、本書の目的は三菱財閥の研究ではなくて日本銀行の研究にある。

だが歴代の日銀総裁を調べているうちに、日銀と三菱が非常に深い関係にあることが分かったのだ。

ここで歴代日銀総裁の経歴をざっと見ておくことにしよう。

初代 吉原重俊(明治15年10月6日〜明治20年12月19日)

慶応2(1866)年に薩摩藩から選ばれて米英両国に留学。留学中の明治5年に外務省書記官となり、在米日本大使館に勤務するが、その後大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義の下で活躍した。明治13年に大蔵小輔(次官)となり、在任中の明治15年に日本銀行創立事務委員に任命され、日本銀行設立とともに初代総裁に就任した。

第2代 富田鐵之助(明治21年2月21日〜明治22年9月3日)

幕府の海軍奉行であった勝安房守の推薦により米国に留学、主として経済学を学び、ニューヨーク副領事、在英大使館1等書記官を務めた後帰国し、大蔵大書記官として日本銀行創立の事務に当たった。明治15年より副総裁として、初代吉原総裁とともに日本銀行創業期の中心的役割を担った後、明治21年に総裁に就任した。

さて、初代と第2代の両日銀総裁時代の大蔵大臣は松方正義であった。

松方正義は明治14年10月21日〜明治18年12月22日まで大蔵卿、その後、第一次伊藤内閣、黒田内閣、第一次山県内閣、第一次松方内閣と、明治18年12月22日から明治25年8月8日までずっと大蔵大臣を務めている。

その後は飛び飛びで、第2次伊藤内閣の明治28年3月17日から同年8月27日まで、第2次松方内閣の明治29年9月18日から明治31年1月12日まで、第2次山県内閣の明治31年11月8日から明治33年10月19日まで大蔵大臣を務めた。

この松方正義と岩崎弥之助が深い関係にあったことはすでに述べた。

そこで今度は松方家の家系図を描いて、そこから何が読み取れるか調べてみよう。

松方正義の次男の松方正作の養子である義行は、後に森村財閥の森村市左衛門の養子になっている。

正作の妻の繁子は、弥之助の長女である。松方家と岩崎家は一族を成していたのだ。

小弥太は、薩摩島津家から島津孝子を嫁に迎えている。仲人は松方正義がつとめた。

松方正義の4男の松方正雄は、ペンシルバニア大学を卒業している。例のベンジャミン・フランクリンのペンシルバニア大学である。

その長女の富子は中上川次郎吉の弟の中上川小六郎に嫁いでいる。

次郎吉の父親が中上川彦次郎である。彦次郎は叔父である福沢諭吉の影響を受け慶応義塾で教鞭を執り、明治7年イギリスに留学、帰国後外務省に入り、退官後は三井銀行理事になって三井財閥の柱となった人物である。

第3代日銀総裁・川田小一郎、第4代日銀総裁・岩崎弥之助、第5代日銀総裁・山本達雄はすべて三菱人である。

山本は三菱汽船で川田小一郎の知遇を得て日本銀行に転じた。

営業局長として日清戦争中の国債公募を成功させたほか、明治29年にロンドンに派遣され、日本が金本位制に移行する際の基盤ともなった清国からの賠償金の運用を監督するという重責を担った。

ちなみに山本達雄は第2次西園寺内閣の明治44年8月30日から大正1年12月21日まで、大蔵大臣を務めている。

第6代 松尾臣善(明治36年10月20日〜明治44年6月1日)

松尾臣善が日銀総裁の時の日銀副総裁は、後述の高橋是清であった。松尾臣善は二宮家と白州家を通じて松方家と繋がっている。

第7代 高橋是清(明治44年6月1日〜大正2年2月20日)

高橋に目を掛けて引き上げたのが、かの三菱の川田小一郎であったことは興味深い。

高橋是清は日露戦争の時、日銀副総裁として13億円の外債募集に成功し、銀行家としての実力を認められ、1911年(明治44)日本銀行総裁、1913年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の蔵相に就任、同時に政友会に入党した。ついで1918年、原敬内閣の蔵相となり、1921年、原敬暗殺の後、首相・蔵相を兼任し、政友会総裁となった。

財閥と政治家との結び付きと言えば、三井と政友会、三菱と憲政会・民政党、住友と西園寺公望の関係などが有名である。

しかし前にも述べたように、4代目小弥太の数少ない友人の高橋是賢の父親が、政友会総裁高橋是清であったのである。

このことからも、歴史の通説といわれているものがいかに当てにならないか、良く分かる。

第8代 三島弥太郎(大正2年2月28日〜大正8年3月7日)

駒場農学校を卒業後渡米し、ボストン大学より農政学の学位を取得した。通算7年半の海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委員として活躍。横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任。

日銀総裁三島弥太郎は三島通庸の長男に生まれている。

筆者が三島家について特に興味を持ったのは、日銀総裁・三島弥太郎の長男である三島通陽がフリーメーソンであるからだ。これはフリーメーソン側も認めている事実である。

この三島通陽の妹が第一次西園寺内閣の元大蔵大臣(明治39年1月7日〜明治41年1月14日)・阪谷芳郎の長男、阪谷希一に嫁いでいるのである。

阪谷芳郎の妻は後述の渋沢栄一の二女ことである。

そして三島通陽の叔母は内大臣・牧野伸顕に嫁いでいる。

この系図には、吉田茂や麻生財閥の麻生太賀吉も登場する。

そして三島家は大久保家を通じて、高橋是清とつながっているのである。

ここには安田財閥の安田一の姿も見える。

三島家も財閥とは無縁ではないのだ。

ちなみに三島通陽の祖父・三島通庸は警視総監(明治18年12月22日〜明治21年10月23日)も務めている。

第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)

第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)

後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角揃う」と評された。

第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)

1929年(昭和4)7月2日、張作霖爆殺事件の責任をとって、田中内閣が総辞職した。

田中政友会内閣が倒壊した後、野党第一党民政党の浜口雄幸に組閣の大命が下った。

2年前の6月1日、憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党を結成、総裁には浜口が就任していた。

浜口内閣の主要閣僚は、外務大臣幣原喜重郎・内務大臣安達謙蔵・大蔵大臣井上凖之助・陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部たけし・鉄道大臣江木翼であった。

この浜口内閣の政策の二大両輪が、軍縮と金解禁であった。まず、軍縮から見ていくことにしよう。

1930年1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が日・米・英・仏・伊の参加のもとに開催された。

日本首席全権の元首相若槻礼次郎の他、財部たけし海相、松平恒雄駐英大使(イギリスのフリーメーソン)、永井松三駐ベルギ−大使が日本全権団に任命された。

ロンドン会議に臨むにあたって、若槻ら日本全権団が政府から受け取った訓令は3つである。

・補助艦全体の対米比率を7割とする

・大型巡洋艦についても同じく対米7割

・潜水艦については7万8000トンの現有量を保持する

である。

交渉は難航したが、日本側は、補助艦総括で対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦は6割とするが、アメリカ側は、3隻の起工を遅らせて1936年までの条約期間中は7割とする、潜水艦は5万2700トンで均等、という日米妥協案が成立した。

4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印された。

ところがこのロンドン条約が統帥権干犯のおそれがあるとして、海軍、政友会、右翼団体、枢密院の反対にあうのだ。

条約は英米への屈服であり、日本の国防を危うくするというのである。

当時の枢密院では、いぜんとして平沼騏一郎副議長、伊藤巳代治顧問官らが実権を握っていた。

幣原外交に反感を持つ平沼は、軍との結びつきも強く、ロンドン条約反対の立場を鮮明にしていた。

伊東も、「巳代治の目の黒い間はこの条約の文句のままにては、断じて枢府を通過させません」と、息巻いていた。

帝国憲法では、緊急勅令と同様に、いっさいの条約は、枢密院の審査を経て天皇が批准する仕組みになっているのである。

ところがこの審査委員長・伊藤巳代治が最終審査委員会でころっと態度を豹変させて、条約は無条件で「御批准然るべき旨」を表明し、全員一致の可決となったのだ!

方針転換の理由は、天皇への配慮、票決での敗北の見通し、浜口首相らの不退転の決意、軍縮を歓迎する世論、自己保身と様々にいわれている。

しかし筆者は、これまた新たなやらせ芝居ではなかったかと思っている。

伊藤巳代治はロンドン条約に反対する気などさらさらなかったのである。

枢密院での強硬姿勢は国民を欺く単なるポーズであった。

枢密院での否決を予想し、政変を当てにした政友会こそいい面の皮であった。

時の政友会総裁犬養毅、総務鳩山一郎(フリーメーソン)である。

1930年(昭和5)6月18日、大任をはたして半年ぶりに帰国した若槻全権が東京駅頭に立った時、十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えた。

新聞も世論も軍縮賛成であったのだ。

ではこの統帥権干犯の大騒ぎという猿芝居の意味はいったい何だったのか。

ここには、善玉=軍縮・民政党(憲政会)・新聞・世論、悪玉=軍部・政友会・枢密院、という図式がはっきりと見える。

政友会も枢密院も悪役を演じていたに過ぎないのだ。

善を引き立たせるには、悪の存在もまた必要なのである。

では何故、軍縮=善といえるのかというと、日本が戦争に負けたからである。

浜口内閣の外相・幣原喜重郎など、戦後、首相になっている。

ちなみに、この幣原喜重郎はフリーメーソンである可能性が高い。

フリーメーソン・松平恒雄と一緒に、1950年4月、マスタ−メ−ソンの最高階級のミ−ティングに出席しているからだ。

そして幣原喜重郎と松平恒雄は徳川家を通じて姻戚関係にある。

幣原喜重郎は三菱初代総帥・岩崎弥太郎の娘と結婚している。

幣原は大正13年、加藤高明(憲政会総裁)内閣の外務大臣を務めているが、加藤高明もまた弥太郎の娘と結婚しているのだ。

つまり二人は義兄弟ということになる。

ちなみに加藤高明は、東京日日新聞第4代社長(1904〜1906年)を務めている。

幣原はロンドンで駐英公使の林薫からフリーメーソンの話を聞き引きつけられた、と語っている。

林公使は明治35年の日英同盟の功により子爵に、明治39年の日露戦争の功により伯爵に叙せられているが、イギリスでフリーメーソンに入社しているのだ。

林公使は当時日銀副総裁であった高橋是清がロンドンで日露戦争の戦費調達の外債を募集した時に、便宜をはかっている。

この林薫がまた、岩崎家と姻戚関係を結んでいるのだ。

では、以上の関係を家系図に描いてみよう。

林薫の孫である林忠雄は、岩崎小弥太(第4代三菱総帥)の娘と結婚している。

また、林薫の娘は福沢諭吉の福沢家を通じて、岩崎家と姻戚関係にある。

幣原喜重郎の二男が野村銀行・野村証券の野村元五郎の長女と結婚している。

幣原喜重郎はまた、西郷家と徳川家と佐竹家を通じて鍋島家と姻戚関係にあるが、鍋島家は松平恒雄と三島通陽と姻戚関係にある。

松平恒雄と三島通陽がフリーメーソンであることは、すでに述べた。

ちなみに、松平恒雄の長女は秩父宮妃になっている。

そして幣原喜重郎と鍋島家を結ぶ佐竹家は、島津忠彦を通じて岩崎家とつながっているのだ。

幣原喜重郎が岩崎弥太郎の娘と結婚していることは、先に述べた。

しかしそれにしても、この系図はいったい何を示しているというのだろうか。

簡単である。

ロンドン条約実現を強く望んでいた内大臣牧野伸顕、外務大臣幣原喜重郎、駐英大使松平恒雄が一族を形成していたのだ。

そしてその一族の中心には、三菱財閥の岩崎家があったのである。

この陰謀の輪に、ロンドン海軍軍縮会議に随員として加わった樺山愛輔を加えたい。

樺山愛輔の父・樺山資記は海軍大臣などを務めているが、第3代警視総監(明治13年10月23日〜明治16年12月23日)も務めた。

樺山愛輔の二女正子は、白州次郎に嫁いでいる。

正子の姉の泰子は、元日本郵船社長近藤廉平の息子近藤廉治に嫁いだ。

近藤廉平の妻は、三菱銀行初代頭取を務め、岩崎家と縁続きになる豊川良平の妹である。

正子の妹宣子は、松方家に嫁いでいる。第5代警視総監(明治18年12月22日から明治21年10月23日)が三島通陽の祖父・三島通庸である。島津家からは島津忠重が随員に加わっている。

では、ロンドン条約実現に結集したこの一族は何を望んでいたというのだろうか。

平和の実現であろうか。そうではあるまい。

ロンドン海軍軍縮条約による軍縮実施という不況要因と、浜口内閣の大蔵大臣井上凖之助が実施した金解禁は、日本経済を昭和恐慌へと突き落としたからである。

だが、浜口・幣原が調印したロンドン海軍軍縮条約は軍部、右翼の怒りを買った。

1931年11月14日、浜口首相は陸軍大演習を陪観するため岡山へ向かうところを、東京駅で狙撃された。

犯人は右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄。

浜口首相が狙撃されたのと同じホ−ムには、その日たまたま新任の駐ソ大使広田弘毅を見送りに来ていた幣原喜重郎がいた。

弾丸は急所を逸れ、浜口は命だけはとりとめた。

翌15日、民政党は臨時閣議を開き、臨時首相代理を設置し、これに幣原喜重郎をあてた。

浜口首相の暗殺計画は、1930年春から、愛国社盟主岩田愛之助を中心に進められていたという。

浜口内閣は金解禁の時機を誤って、日本経済を深刻な不景気に投げ込んだ。

そのため、失業者・倒産者・犯罪者が続出し、彼らは浜口内閣に対する不満を強めていたのだ。

浜口首相狙撃事件は、1930年代を彩るテロ、ク−デタ−の先駆けとなった。

翌31年(昭和6)3月(3月事件)と10月(10月事件)に、桜会将校によるク−デタ−未遂事件発生。

32年、血盟団事件、5・15事件、36年、2・26事件と続く。

日本はいよいよ狂気の時代へ突入していくことになるのだ。

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■d-10-1三菱フリーメーソン説①

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