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■d-10-2 三菱フリーメーソン説②

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2006-09-18

以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.2』からの引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)

次に金解禁について見ていこう。

浜口内閣の大蔵大臣に就任したのが、井上凖之助であった。

井上凖之助はすでに横浜正金銀行頭取、日銀総裁、大蔵大臣を歴任し、自他ともに財政・金融の最高の専門家として任じていた。

井上財政と幣原外交は、浜口内閣の政策上の二大両輪であった。

前者が英・米両国財界の支持のもとに金解禁を推進したという点と、後者が英・米と妥協してロンドン海軍軍縮条約を成立させた点において共通の地盤に立ち、かつ、浜口内閣において両者は有機的に結びついている。

では、井上凖之助が実施した金解禁とは何だったのか。

それが日本経済に与えた影響とはどのようなものだったのだろうか。

金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にすることである。つまり、金本位制への復帰である。

金本位に復帰しても金貨そのものの輸出を自由にしない国もあったが、日本の金解禁の場合は、国際間の金の移動を自由にすることを意味した。

1917年(大正6)9月、アメリカは、欧州大戦(第一次世界大戦)に参加するとともに、金の輸出を禁止した。

日本もそれにならって、その10日後に金本位から離脱した。

当時、日米両国の財政当局は、金本位停止は、第一次大戦という異常事態に対処するための一時的な措置と考えていた。

アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。

日本は大正11年から金解禁問題が取り上げられ、加藤友三郎内閣の蔵相市木乙彦(第10代日銀総裁)は蔵相官邸で、財界金融界の有力者を集めて会議を開いた。

国際的にも、ジェノア経済会議等で、金本位復帰の必要が強調されていた。

ところが、1923年(大正12)の関東大震災で金解禁論は頓挫した。

1925年、イギリス、オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国が、次々と金解禁に踏み切った。

日本は、各国に立ち遅れたという事態に陥った。

そこで1926年、若槻憲政会内閣の蔵相片岡直温が、金解禁に着手しようとして、震災手形善後処理法案その他の法案を議会に提出して、金解禁に踏み切る準備が整えられた。

しかしこの議会中に、昭和2年の恐慌が起こって、この方策も挫折した。

1928年6月、フランスのポアンカレ−内閣が金本位への復帰をはかると、日本でも金解禁の機運が著しく高まった。

そこで1929年5月、田中政友会内閣の蔵相三土忠造は、当時財務官として英仏米に駐在していた津島寿一(のちの大蔵大臣)に電報を打ち、帰国を命じた。

この電報の一週間ばかりたって、「金解禁に関連して実行すべきクレジット問題について研究して帰朝せられたい」という電報が津島に届いた。

そこで津島は帰国前にイギリスならびにフランス、イタリア等の当局、中央銀行総裁、イギリスの銀行家等と話し、日本が金解禁を実行した場合に取るべき措置、各国のクレジット設定の手続等について意見を交換した。

さらにニューヨークに渡って連邦準備銀行総裁とか、モルガンその他銀行の首脳者とも話し合って、適当と思う方策を立てて、帰国の途についた。

ところが津島が太平洋航海中の1929年(昭和4)7月2日、田中内閣は張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職した。

三土忠造が辞職して、井上凖之助が大蔵大臣に就任した。

この時の日銀総裁(第12代)は土方久徴である。

その前年の1928年から、国内では金解禁を要求する声がほうぼうからあがっていた。

まず、財閥系の銀行である。

金融恐慌の結果、特融(銀行界救済のための政府補償による日銀の特別融通)で約6億の金が出た。

その上に、三井・三菱・住友・安田・第一などの財閥系銀行に預金が集中した。

これらの銀行は、金融緩慢の中で資金の投資先に困り、金利の高い海外に資金を移動することを強く望んだ。

為替が下がった時に資金を輸出していたら、金解禁で為替が上がると損失になるので、銀行は金解禁を強く主張したのである。

東京、大阪の手形交換所の理事長、池田成彬(三井銀行)と八代則彦(住友銀行)は連名で金解禁即行を建議した(昭和3年10月)。

産業資本家や貿易業者も、為替相場の安定を要求して金解禁即行を唱え、日本商工会議所も金解禁断行を政府に建議した。

1920年の恐慌以来、第一次大戦中に水膨れした不良企業の整理は、日本経済最大の課題となっていた。

だが、政府は経済界の動揺を恐れて、財界整理を行おうとはせず、むしろ、日本銀行の救済貸出しや特別融資などによってその破綻を取り繕っていた。

そのため、産業の合理化は進まず、企業の対外競争力は低下し、国際収支の悪化が進行した。

一方で、欧米の資本主義国は、企業の整理集中、生産設備の高度化を進めて、戦後不況から抜け出しつつあった。

このような情勢の中、政府・財界は、1917年以来の金輸出禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、日本経済の国際競争力を強めるべきだという意見が高まっていたのだ。

だが、金解禁は財政緊縮・産業合理化・消費節約等によって、不景気の到来は不可避である。

ところが、朝日、日日(現在の毎日)、時事新報などほとんどの新聞、雑誌、学者は、金解禁をした後で景気が良くなるという幻想を振りまいたのである。

しかし金解禁を行うにしても、いかなる為替相場で通貨の安定をはかるかという問題が残る。

旧平価解禁でいくか、新平価解禁でいくか、の二つの立場があった。

金解禁当時、日本の為替は下がっていた。為替の下がった大きな原因は関東大震災であった。

金の輸出を禁止していたので、震災などで品物がうんと入ってくるが、金の輸出の許可が非常に制限的であったために円為替が下がった。関東大震災で為替が平価で50ドルとか、49ドルいくつというものが、約40ドル内外の相場を、20数カ月続けた。

震災後、日本経済はその為替(新平価)を基準にして、一応立ち直ったのである。

これを為替を元に戻す(旧平価解禁)とすると、40ドルが50ドルになる訳だから、2割5分の円高ということになり、輸入は割安になり、輸出は割高となる。輸入が増え、輸出は減る。

その結果、金が流出し、通貨が収縮し、物価は下落して、デフレになる。経済は破綻する。

新平価解禁ならば、急激な物価変動を避けることが出来る。

ところが政府は旧平価解禁を選択したのである。

旧平価で解禁しても、10パ−セントの円切上げに過ぎず、たいした影響はない、と判断したのだ。

新平価解禁などは問題にもならなかった。

浜口・井上が、旧平価解禁を選んだ背景には、政治的理由も存在していた。

もし、新平価で解禁すれば、法律の改正を必要とする。

1897年(明治30)制定の貨幣法では、純金2分を1円とすると決められていたから、この規定を変更しないことには、新平価解禁は出来なかった。

これは議会で否決される恐れがあった。旧平価解禁なら、単に1917年(大正6)の金輸出禁止の大蔵省令を廃止するだけで済む。

それと、1931年(昭和6)1月に満期となる、第2回4分利付英貨公債の借換えの問題があった。

これは高橋是清が日露戦争の時発行したもので、その残額は2億3千万円もあった。

これを現金で返すとなると、在外正貨が枯渇する。だからこれはどうしても借り換えねばならないが、英米銀行家は円為替が不安定では外債の発行は難しい、通貨の安定が先で、外債発行はその後にすべきであるという意見であった。

この問題を解決するためにも、金解禁を実施して、通貨を安定させることが先決とされた。

ここで少し、この第2回4分利付英貨公債募集の経緯について触れておこう。

日露戦争の外債募集のために、当時日銀副総裁であった高橋是清はニューヨークに出発した。

高橋是清の秘書兼通訳だったのが、深井英五(第13代日銀総裁)である。

深井英五は辻家を通じて井上凖之助と親族であるが、関根家と小坂家と岡部家を通じて岩崎一族と繋がっている。

関根家はまた、玉置家と勝田家を通じて岩崎家と姻戚関係にある。

アメリカで外債募集の望みのないことが分かると、高橋はイギリスに向かった。

ロンドンで500万ポンドの公債発行の話が纏まり仮契約を結んだ高橋は、友人ヒルの邸で、偶然に米国人のシフに紹介された。

翌日、ク−ン・レ−ブ商会のシフは、公債残額500万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと高橋に連絡してきた。

シフとの話が纏まって、英米で1000万ポンドの公債を発行することが出来るようになった。

これが、第1回6分利付英貨公債(明治37年5月11日募集開始)である。

発行銀行はパース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ク−ン・レ−ブ商会等であった。

ちなみに、この時日本は関税収入を抵当にしている。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張した。

高橋がこれに反駁したので、管理人を入れず単なる名称のみの抵当となった。

万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、とシフに尋ねられたベアリング商会のレベルストック卿は、Warship!(軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフもそれで納得したという。

イギリスの巨額の海外投資(長期の資本移動)が、世界最強の海軍力に支えられていたことが良く分かる話だ。

第1回6分利付英貨公債に引き続き、高橋是清は明治37年11月に第2回6分利付英貨公債1200万ポンドをロンドンとニューヨークで募集した。

一時帰国した高橋は、翌明治38年2月17日、再びロンドンに向かった。

そして3月29日、第1回4分半利付英貨公債3000万ポンドの募集を開始した。

ロンドンの銀行者が1500万ポンド、ニューヨークのクーン・レーブ商会が1500万ポンドを引き受けることになった。

また、7月11日には第2回4分半利付英貨公債3000万ポンドをイギリス、アメリカ、ドイツ3国で募集している。

日露戦争は日本の優勢のうちに終わり、明治38年8月には、ポ−ツマスで講和会議が開かれ、9月にはポ−ツマス条約が締結された。

11月には新たに、第2回4分利付英貨公債5000万ポンドの発行が決まる。

その内、2500万ポンドはイギリス・ロンドン、アメリカ・ニューヨーク、フランス・パリ及びドイツにおいて募集し、日本政府の内国債償還に使用する。

フランスの募集額は1200万ポンドとし、残額1300万ポンドはイギリス、アメリカ、ドイツに分配する。

残りの2500万ポンドは明治37年5月及び11月、イギリス・ロンドン及びアメリカ・ニューヨークにおいて募集した6分利付英貨公債2200万ポンドの引換えのために保留する。

11月28日に第2回4分利付英貨公債の募集が盛況のうちに行われた。

そしてここに到って初めて、ロスチャイルド家が表面に出てくるのである。

この時の発行銀行が、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会(ロンドン・ロスチャイルド家)、ロスチルド商会(パリ・ロスチャイルド家)等であった。

金解禁の時に問題となった外債の借換えとは、正にこの第2回4分利付英貨公債の借換えのことだったのである。

これが日本に金解禁を急がせた最大の要因だった。

「さて、眼を転じて外国債を見ると、あたかも第2回4分利付英貨公債の償還期限が迫っていた。それは、かつて日露戦争直後(1905年=明治38年11月)、特派財政委員高橋是清に英・米・独・仏の市場で2500万ポンド発行させたものであった。うち、156万ポンドは明治45年以降昭和5年までの間に償還し、残額は2344万ポンドあったが、その償還期限が昭和6年1月1日であったので、この借換ないし償還の問題が、償還期限の切迫とともに、わが国財政上の重要懸案となっていた。当時、民間では、借換でなくとも償還可能である旨を主張する論者もあった。しかしながら、財政の実情は借換または新規外債によらなければとうてい不可能であった。金解禁の必要が叫ばれたのにはいろいろの理由があったが、この借換問題こそは、その最も直接的な動機をなした。借換を実施するためには、まず金解禁を断行して、通貨の安定を図ることが先決条件であった。当時、わずか2年有余の間において、わが国の為替比率は200回も変更されるほどの不安定な状態にあった。このような不安定な状態下では、とても海外市場の信用を得て借換を実施することは不可能であった。

後に詳述するように、第2回4分利付英貨公債の借換のため、昭和5年5月10日、金解禁実施(5年1月11日)後4ヵ月を経て、5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債の発行に成功した。この借換発行を成功させるためには、金の解禁が絶対に必要であり、また、金解禁実施のためには、国際貸借の改善と財政の立て直しが必要条件であったのである。新公債の成立は明らかに金解禁の成果であった。解禁の結果による輸出入バランスの改善と、非募債方針の徹底によるわが国財政への信用とが相まって、この借換交渉を成立させたと言える」(『国債』東洋経済新報社)

5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債の発行団は、英国発行団は、ウェストミンスター銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、ロスチャイルド商会およびシュレーダー商会であった。

米国発行団は、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行および横浜正金銀行である。

日本が金解禁を急いだ背景には、これらの欧米巨大財閥の猛烈な圧力が存在したのである。

借金をしている者は立場が弱い。これは個人でも国家でも同じである。

話を元に戻す。

昭和4年10月18日、財務官津島寿一は、井上蔵相、土方日銀総裁との協議を終えて、ニューヨークへ向かった。

津島はバンクーバーからニューヨークへ行く汽車の中で、ウオール街で株価大暴落の第一報を受けた。

これが「世界恐慌」となり翌年以降日本もこの波に呑まれ未曾有の不況に陥った。

ニューヨークに着くと、モルガン商会その他の巨頭連がみな集まって市場対策を協議中で大騒ぎしていた。

11月4日から、津島はモルガン商会のラモントをはじめとする銀行家とクレジット設定の交渉に入った。

英米銀行家はクレジット設定に非常に協力してくれて、1億円のクレジットがイギリス及びアメリカにおいて設定された。

これはむこう1年間、政府は必要に応じて、1億円の範囲内で英米の金融業者から借り入れを行うことができるという契約である。

金解禁を行った後、ただちに巨額の金を現送するようなはめに陥らないための準備が行われたのである。

契約額は、米国銀行団2500万ドル、英国銀行団500万ポンド、契約当事者は、米国側がモルガン商会、ナショナル・シティー・バンク、クーン・レーブ商会、ファースト・ナショナル・バンク、ギャランティー・トラスト、英国側はウェストミンスター銀行を首班とする五大銀行、ロスチャイルド、香港上海銀行などであった。

井上蔵相も、この契約に承認を与えたので、11月18日正式調印、20日に発表した。

そして、翌21日付で大蔵省令を公布し、金解禁は、1930年(昭和5)1月11日から実施することが決まった。

翌30年1月、金解禁実施。2月20日には、金解禁是か非かを争点とする総選挙が行われた。

結果は民政党の大勝であった。金解禁は民意の支持を受けたのである。

しかしこの金解禁、実施時期が悪かった。

前年の10月、ニューヨーク株式市場は大暴落、世界恐慌にまで発展し、この年、日本経済は未曾有の大不況のなかにたたき込まれることになる。

旧平価による解禁で物価は暴落、国際商品価格も世界恐慌のため暴落したため、輸出は伸びず、海外のものがそれだけ安くなって日本に殺到してくる。

金の流出も始まった。

国内で紙幣を金に換えようとするものはわずかであったが、内外の銀行で在外正貨の売却を日本銀行に依頼するものが多かった。

解禁前、円の対ドル為替相場の低かった時点でドルを売っておき、解禁後の高い相場でドルに戻せばそれだけで利益が出る。

後に問題となったドル買いとは反対の手口であるが、いずれにしても金解禁に伴うボロ儲けである。

政府も金解禁を行った以上、金の輸出や在外正貨の払い下げを拒むわけにはいかない。

昭和5年1月から5月までに、外国銀行は1億2300万円、その他の要求をも合計すると、1億9600万円の紙幣が金に換えられていたし、同じ期間に正貨の流出は、2億2000万円に達し、また、1月から3月までの在外正貨の払い下げは、6500万円に及んでいた。

その金及び在外正貨の流出は、投機ばかりでなく解禁後為替相場が安定したため輸入を増やしたためでもあった。

解禁前、銀行筋では金及び在外正貨の流出は、1億円ないし1億4000万−1億5000万円と見込んでいたといわれるが、その倍近い金額が解禁後半年にして流出したのである。

株価・物価の暴落、工業・農業生産の低落、輸出入の不振、国際収支の悪化が進み、1931年に、日本の恐慌は最悪の事態を迎えた。

先にも述べたが、1930年(昭和5)11月14日、浜口首相が東京駅頭で狙撃されるという事件が起こった。

ロンドン軍縮条約に反対する右翼の犯行であったが、未曾有の不景気が事件に与えた影響も大きい。

第59通常議会は12月24日に始まる。

民政党は、外相の幣原喜重郎を首相代理にあてた。

1931年(昭和6)4月14日、傷病の浜口の後を継いだ第2次若槻内閣が成立する。

若槻内閣は、行政・財政・税制に関する3つの準備委員会を設置、大胆な行政改革に乗り出した。

目標は一億円の節約にある。

ところがこのような深刻な不況下において、9月18日、満州事変が勃発したのだ。

満州事変勃発とともに関東軍は奉天を占領し、19日には長春以南の満鉄沿線の支那軍を掃討した。

政府は閣議で不拡大方針を定め、局地解決による事態収拾を図ったが、関東軍と朝鮮軍の積極的姿勢によって戦局は拡大した。

事変とともに政府は軍事行動のための緊急支出、予算節約額の復活と第二予備金によって経費を賄うことを閣議で決定したが、事変は漸次拡大発展し軍事費支出は増大し、金輸出再禁止の要因になりつつあった。

一方、アメリカの恐慌はヨ−ロッパ諸国に波及した。

多くのヨ−ロッパ資本主義国は、アメリカからの短期の貸付資金に依存して経済の回復を図っていた。

しかし株式恐慌に直面して、アメリカの財界は、その短期の貸付資金を引き上げた。

アメリカからの資金流入が止まると、ヨ−ロッパ諸国の工業生産は停滞し、貿易も減退した。

株価の崩落は、世界の農産物市場をパニックに追い込んだ。

農産物価格の世界的暴落が起こると、農業関係の企業へ多額の融資を行っていたオ−ストリア、ドイツの銀行はたちまち経営難に陥った。1931年5月13日、オーストリアの大銀行クレディット=アンシュタルトの破綻に続いて、同年7月13日には、ドイツ第2の大銀行ダーナードがついに支払い停止に追い込まれた。

ドイツは激しい金融恐慌に襲われた。

ドイツに投資されていた各国の資金は、支払い停止と為替管理によって完全にブロックされた。

各国の資金は直接ドイツに投資されていたのでなく、イギリスを経由して投資されている場合が多かった。

そのためにドイツからの資金引き上げの波が一転してイギリスを襲うにいたった。

イギリスを通じてドイツに投資していたのは、主としてフランス、スイスなどの諸国であったが、今その安全を確保するために、イギリスにおいていた4億ポンドの資金を引き上げようとした。

イギリス経済はたちまち危機に立たされた。

ロンドンは世界金融の中心であるとはいえ、それだけの資金の支払いに耐える程の準備はなかった。

イギリス政府はその支払いのために5000万ポンドのクレジットを借り入れたが、それはわずか10日間で失われてしまった。

満州事変の勃発後の9月21日、イギリスが金本位制度離脱声明を行った。

イギリスの金本位制離脱は世界経済に大きな影響を与え、ニューヨーク、パリを除く外、各国の市場は休場し、日本でも全国の取引所は大混乱となり立会を停止している。

イングランド銀行は金本位制停止とともに公定歩合を6分に引き上げて非常対策をとったので、その国際金融に及ぼす影響を回避するため、デンマーク、ノルウェー、スエーデン等の諸国は金本位制から離脱した。

そして各国の中央銀行は公定歩合を引き上げ金流出の防衛策をとったので、世界的高金利の時代が現出した。

イギリスの資金を海外に持ち出そうとする動きは食い止められたが、100年以上にわたって存続したイギリスの金本位制はここに終焉したのである。

ヨ−ロッパの恐慌は、今度は逆にアメリカ経済に深刻な打撃となって跳ね返ってきた。

銀行の倒産があいついだ。その一つに、ニューヨークのユナイテッド=ステイツ銀行の倒産がある。

アメリカの恐慌は今や世界恐慌の一部となった。

一方、日本でも金解禁恐慌の深化によって金再禁止論が台頭しつつあった。

だが、井上蔵相は金本位制を維持するという立場を明らかにした談話を発表した。

10月5日、日本銀行は各種公定割引歩合を一律2厘引き上げを決定した。

この日本銀行の公定歩合引き上げは、イギリスの金本位制離脱と満州事変による日本の金流出防止と、金輸出再禁止の不安を一掃する目的で行われたのである。

日銀の公定歩合引き上げによって市中金利は上昇し有価証券価格は低落した。

不景気の中での金融引き締めは、景気をますます悪化させた。

だが、金本位の祖国イギリスが金本位を離脱した以上、金本位制の世界的崩壊は必至であった。

日本の金本位停止も、もはや時間の問題である。そうなれば、円の暴落は避けられない。

国際金融筋・財閥系銀行がドルの思惑買いに走った。

今のうちにドルを買い込んで、円が暴落した時に円を買い戻せば莫大な利益を得ることができる。

かくして狂気のような円売り、ドル買いが始まった。

1930年7月から31年12月12日までに正金銀行が売却したドル総額は、実に7億6000万円にのぼったとされる。

その内訳は、次の通り。

ナショナル=シティ銀行 2億7300万円

住友銀行          6400万円

三井銀行          5600万円

三菱銀行          5300万円

香港上海銀行        4000万円

三井物産会社        4000万円

朝鮮銀行          3400万円

三井信託会社        1300万円

その他         1億8700万円

以上のうち、イギリスの金本位停止以来のドル売却額は、約5億1000万円であるという。

「当時のドル買の約半分はナショナル・シテイ・バンク一行で占め、三井銀行は9月21−25日の3日間に合計2135万ドル(邦貨換算4400万余円)、三菱銀行約2000万円、住友銀行千何百万円のドルのカバー買をしている。さらに日本も金輸出再禁止になるという思惑から、ドル買が正金銀行に殺到し、正金銀行は無制限にドル売りに応じた。イギリスの金本位制停止から一週間の間に正金銀行のドル統制売りは2億円に達したといわれる。正金銀行は10月に1億2000万円、11月に1億6000万円の金現送を行ない決済資金を補充した。この正金銀行の無制限なドル売りについては井上蔵相の指図によるといわれる。こうした非常事態に対応するために日本銀行は11月5日から、再び公定歩合を2厘方引上げた。日銀の金利引上げは恐慌過程において資金需要を梗塞することとなるが、正貨の流出が続くことは結果において金融梗塞となり、また金本位制の維持を困難にすることであったので、高金利政策に転換したのである。井上凖之助伝によれば『財界有力者の金本位制度擁護の申合のみに依ては、到底ドル買を絶滅せしめることが不可能であると悟ったからであった。即ち如何に国民の愛国心に訴ったえても利欲に目が眩んだ一部の国民は決してドル買を中止しないことを井上蔵相は見抜いていたからである。此において井上蔵相の対策は、ドル買に対して徹底的に売り向うことであった。買う者があればいくらでも売る、最後には買方が閉口垂れるであろうというのが』井上蔵相の信念であったといわれる」(『日本財政史概説』星雲社)

ちなみに、この時の横浜正金銀行副頭取が大久保利賢(大久保利通の八男)であった。

巷では、ドル買いで巨利を博した財閥に対する非難の声が高まった。

11月10日、政友会は、即時、金輸出禁止を断行すべきであると決議した。

1931年12月11日、若槻内閣は閣内不統一のために総辞職した。

その背後にはドル買筋が思惑通りの利益をあげるために、若槻内閣の倒閣=金輸出再禁止という策動があったといわれる。

海外からも金輸出再禁止へ向けて強力な圧力がかかったことは、想像に難くない。

何しろ、ドル買いで一番儲けた銀行は、ナショナル=シティ銀行であるからだ。

ナショナル=シティ銀行は、ロックフェラーの石油収入の主要な貯蔵所であった。

若槻内閣総辞職の2日後の12月13日、政友会総裁犬養毅が後継首相に推され、同内閣は即日金輸出再禁止を行った。

それにしても、井上蔵相の責任は重い。

イギリスが金本位制を停止した時、日本も直ちに金本位制停止に踏み切っていれば、大恐慌の衝撃はもっと小さくて済んだ。

そもそも、井上蔵相が新平価ではなく、旧平価で金解禁をしたのが間違いであったのだ。

ヨ−ロッパの多数国は新平価を設定して通貨安定をやったものが多かった。

敗戦国はもとより、フランスもベルギ−もイタリアもそうであった。

例えばフランスのフラン為替は2年間ぐらい動かないで事実上のスタビリゼーションが出来ていた。

新しい通貨安定法はこの事実上の安定相場125フラン対1ポンドの相場を法律化しただけであった。

これはポアンカレーの賢明なやり方だったといわれた。

日本に続いて、アメリカが1933年、フランスが1935年にそれぞれ金本位を停止した。

その後、金本位は遂に復活されることはなかったのである。

井上蔵相のデフレ政策の結果、失業者は増大し、労働争議は続発した。

しかし、産業の合理化は成功したのである。

大不況に直面して、大企業は合理化を進めた。

後の高橋財政期の重化学工業の急速な発展は、この恐慌下の合理化が前提となっていた。

また、1920年代以来の「近代的」労使関係の成立が、この合理化をいっそう容易にしていた。

大恐慌期の大企業では、「会社あっての労働者」という企業側の宣伝・労務政策が功を奏し、労働者はますます資本のもとへ包摂されていった。

大企業では、労使一体の関係が形成され、労働組合はそれにすっぽり包みこまれていた。

恐慌を契機に、大企業における労働者の会社への帰属意識はいっそう強まった。

戦争の危険が迫っても、大企業の労働者がほとんど立ち上がらなかった理由はここにある。

不況期には労働者の立場が弱くなるのは、昔も今も変わらない。

しかし何といっても、この恐慌で一番の打撃を受けたのは農村であった。

1930年(昭和5)当時、農漁村は最大の有業人口を抱えていた。

ある推計によると、1930年の農林・漁業労働者の総数は約1030万人、全有業者の34.1パ−セントを占める。

ちなみに商業労働者を除く生産的労働者は約450万人(全体の20.5パ−セント)、給与生活者は約160万人(同5.4パ−セント)。

1930年は、相次ぐ米価暴落によって、「豊作飢饉」と呼ばれる状態が現出した。

翌31年は、一変して、東北・北海道が「凶作飢饉」に見舞われた。

この年から、農業恐慌は本格的・全面的となった。

東北農村を中心に、青田売り、欠食児童、娘の身売りなどが続出した。

「非常に深刻な不景気というのがどこへきたかというと、農村にもっとも集中的にきたんです。つまり農産品の暴落は、世界の恐慌でもほかのものに比べていちばん強かったわけですけれども、国際的にもその打撃はやはり日本も受けたわけですね。ことに日本の場合は、そのころいちばん大きなものは米と生糸なんですね。米が二重の形において暴落したんです。一つは第一次大戦中、大正七年に米騒動が起こっていますから、それほど米が不足したんですけれども、そのあと台湾と朝鮮に米の一大増産政策を計画的にとったんです。その増産計画が成功して米がどんどんできだした。国内でもできだした。そのときに恐慌にぶつかったわけです。だから米の供給過剰と世界恐慌とがいっしょにきたものですから、米の値段が暴落したわけですね。それから生糸もアメリカをはじめ、世界的に暴落した。そのうえ為替が四十ドルから五十ドルに上がって対外相場は暴落して、そのうえにこんどレ−ヨンがその時代に出たわけなので、その打撃もある程度出た。そういう形で生糸も暴落したんですね・・

僕の手許には、その当時、長野県から報告したものがあるんですけれども、これはひどいんですよ。農村の小学校の教員に給料が払えないんです。税金は出さないで、借金はむろん払えないんです。だから地方銀行はほとんど倒産状態だから、それからモラトリアムが起こった。それはひどいもんで、雨の日がくると傘がないんで欠席者が非常に多いとかいうふうな状態で、また弁当持ってこない子どもが非常に多くなった。 ・・・欠食児童・・。

高橋 そう欠食児童です。ですから昭和七年の5・15事件などを起こした連中やなんかは農村の疲弊を救済するということを言った。これは農民に対しての同情といいますか、これに対してなんらかの手をとるべきだというのが、軍の一つの大きな理由だったんです」(『昭和経済史への証言』上)

5・15事件、2・26事件で決起した陸海軍青年将校の、腐敗した政党と財閥を倒して昭和維新を断行せよ、という主張は正しかったことになる。

しかし、目的達成の手段がまずかった。

クーデターや要人暗殺という暴力的手段は国民からそっぽを向かれ、天皇の激怒を買った。

それとともに、農村救済という青年将校の大義もまた汚されてしまったのである。

また、3月事件以来の数々のクーデター計画には不審な点も多い。

結局のところ、元老西園寺公望や内大臣牧野伸顕は無事だったからだ。

「昭和の動乱はよく軍部のファシズムによる暴走と言われるが、このことはよく考えてみる必要がある。10月事件以降の血盟団事件、5・15事件、2・26事件は純粋無垢な赤心あふれる青年将校たちの熱情と『軍事力』を利用し、そそのかした『ある勢力』が背後にいたと考えなければならない。昭和に動乱を起こし、日本を戦争に導くための大がかりな仕掛装置が音をたてて作動し始めたのが、昭和三年の張作霖爆破事件以降の昭和史なのである。

そして事件を起こす人間は決まって同じ顔ぶれであり、事件による犠牲者もほんも一部にすぎず、その多くは真の黒幕とは言えない人物たちである。西園寺公望や牧野伸顕、幣原喜重郎、岡田啓介など、中枢部はいつも殺害対象に上げられながらなぜか危機をまぬがれている。

このことは昭和の動乱とは、ある種の大きな狂言であったことをほのめかしている。その目的とは何であろうか。それは当時の日本の権力機構に衝撃を与え、それをずたずたにして互いを戦わせ、内乱に持っていくと同時に軍部の暴発を誘い日中を闘争させ、やがては日米開戦への大きな歯車を回すことに他ならない。

民間右翼の一部は財閥やユダヤ勢力とつながっていた。陸軍や海軍の首謀者たちの背後にもその影が見られる。

陸軍皇道派ははね上がり、そしてつぶされていった。

その後に台頭した統制派はおだてられ、あおられたあげく日中戦争、太平洋戦争へと暴走を始める。

海軍は西園寺公望や岡田啓介、米内光政、山本五十六などユダヤ・フリーメーソン陣営の私兵であった。

日本を亡したものは陸軍統制派と海軍であったが、彼らを操ったのは西園寺らユダヤ・フリーメーソンおよび一部の非愛国的右翼だったのである」(ヤコブ・モルガン著『山本五十六は生きていた』第一企画出版)

それにしても、農村の窮状はひどかった。

当時の新聞や雑誌にも、東北農村の窮乏を伝えるルポルタ−ジュが相次いで掲載された。

「去年は豊作で、それでやっぱり飢饉と同じことだった。つまり、豊年飢饉てえ奴だといふが、わしもこの年になって始めて聞いた。なアかういふことア一度起ったら毎年起って、それが年々悪くなるばかりだ。さうなりゃ、豊年もくそもねえじゃねえか。・・そこへ持って来て、今年は飢饉の飢饉、これでは来年は、百姓奴等は干ぼしになって、飢え死んで野たれ死んで、それで足りなくて、首をくくって死ぬ、といふことになるだア。べら棒め・・なア。おかみさん、わしも一人の息子を満州の兵隊に出しているだが、こないだも手紙で言ってやっただ。国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、とな。さうすりゃ。なアおかみさん、なんぼか一時金が下って、わしらの一家もこの冬ぐらいは生き伸びるだからな。娘を持ってるものは娘を売ることが出来るだが、わしは息子しか持たねえから、さうして息子を売らうと考へてるだよ・・。

また、中郡和徳村の農民は、『今年は、わし達が馬になるのです』と答えている。平年に、この地方の農民は、もみ殻のついたままの粗悪米を、かぼちゃやじゃが芋に混ぜて馬の飼料にしていた。それを今年は、自分たちが食う番だというのである」(中村政則著『昭和の恐慌』小学館)

このような状況の中で、財閥はドル買いでぼろ儲けしたのだから、陸海軍青年将校の「国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!」との主張にも頷けるものがある。

暴力はいけないというが、この破滅的な飢饉もれっきとした暴力であろう。

当時の財閥の代表といえば、三井の池田成彬であった。

池田のドル買いに対する言い訳は次の通りである。

当時、イギリスへの投資は、直接英貨を調達することが困難であったので、先ず銀行がドル貨を買い入れ、これを先物に売り継ぐとともに、そのドル貨をロンドンに回送して英貨債投資に当てていたが、イギリスの金本位制離脱によってポンド貨が暴落したので、先売ドルの決済資金をロンドンから回金することができず、資金は凍結された。その凍結資金は三井銀行だけで7146万円であった。ドルの先物に対して手当をする資金を日本から送金するためには、正金銀行からドルを買わなければならなかった。またこの他にも、三井物産の輸入資金および東電その他の外債利払いのためにも、相当ドル買いの必要を生じた、というものだ。

当時、外国為替を扱っていた三井、三菱、住友三行の1931年下期の損益計算書を見ると、三井銀行が1230万円、三菱銀行が670万円、住友銀行が137万円の「純損金」を計上している。

三行がそろって「純損金」を計上したのは、三井の池田成彬が、三菱の串田万蔵と住友の八代則彦に働きかけたためであった。

しかし、三行の損益計算書には、粉飾決算を行った痕跡が認められるのである。

ドル買いは三井銀行の自衛措置ではなく、やはり計算ずくの金儲けであったのだ。

ところで、この池田成彬という男は、なかなか面白い経歴を持っている。

慶応大学卒業後、ハ−ヴァ−ド大学に留学、帰国後に福沢諭吉の時事新報社へ入っている。

そこをすぐ辞めて、今度は三井銀行に入社しているのだ。

慶応卒、福沢諭吉の弟子とくれば、次は三菱というのがお決まりのコ−スなのだが、池田が三井銀行に入ったところに何か胡散臭いものを感じる。

1932年(昭和7)3月5日、三井合名理事長団琢磨が血盟団の菱沼五郎に暗殺されると、池田は三井家の主人に請われて三井合名に入っている。

当時、財閥に対する風当たりが強くなってきたので、その対策に引っ張りだされたのである。

池田が合名に入ってやったのが、三井物産や三井鉱山の会長、社長に三井の主人がなっていたのを、辞めてもらって実際に働いている人をそれに代えたことである。

また三井報恩会に三千万円出したり、三井の持株を減らして株を開放しようとしている。

財閥に対する風当たりを防ぐために、三井の内部機構を改革しようとしたのだという。

しかし大した成果も上げられず、2・26事件後に三井を辞めている。

さてそろそろこの辺で、池田成彬の家系図を描いてみることにしよう。

三井の池田、三井の池田と騒がれながら、三菱の岩崎家に娘を嫁がせているのだ。

池田成彬は三菱財閥が三井に送り込んだエージェントだったのである。

その目的は、徳川幕府の御用商人を勤めた「世界最古の財閥」といわれた三井財閥を内部から破壊して乗っ取ることであったと考えられる。

三井の主人がこんな人物を三井財閥の中枢に据えたのも、それだけ当時の財閥に対する反感が大きかったからである。

しかし池田成彬は財閥に対する世論の指弾を一身に引き受けることで、世間の非難の眼差しを三菱財閥から逸らすことに成功したのである。

三井を辞めた池田成彬はその後、日銀総裁、内閣参議、大蔵大臣兼商工大臣、枢密顧問官と栄達の道を歩いている。

これが三菱のエージェント、池田成彬に与えられた報酬であったのだ。

池田成彬も右翼の殺害対象とされた人物の一人である。

井上凖之助(1932年2月9日、血盟団の小沼正に射殺される)、団琢磨と暗殺に成功した血盟団は、犬養毅、若槻礼次郎、幣原喜重郎、池田成彬、西園寺公望、牧野伸顕も殺害する計画だった。

しかし西園寺公望や牧野伸顕は右翼の暗殺リストの筆頭に載っているのに、無事に生き延びたことはすでに述べた。

池田も軍部、右翼の暗殺を免れた一人だ。

するとやはり、3月事件から2・26事件に到る、一連の要人暗殺・クーデター計画には裏があったということになりはしないか。

三井合名理事長の団琢磨暗殺も、軍部、右翼、マスコミ、世論の財閥非難の声を沈静化させるための生贄殺人であったと考えられる。

あるいは、右翼の仕業に見せかけて邪魔者を葬ってしまおうという策略であったのかも知れない。

団琢磨暗殺には、どうも某財閥の影がちらつくのである。

ドル買いで財閥が巨利を博したことは確かだが、大恐慌期には、全体的には、財閥系企業もかつてない経営危機に落ち込んだ。

中でも、住友財閥の落ち込みが最も激しかった。

このような経営危機に直面して、独占的重化学工業資本は、相次いでカルテルを結成し、独占価格の維持につとめた。

その結果、大企業と中小企業との格差はいっそう大きくなり、経済の二重構造が大恐慌期に定着した。

不況、カルテルの結成、経済の二重構造、労使一体の労働組合、これは現代にもそっくりそのまま当てはまる。

そしてこの不況打開のためには、戦争が必要だった。

1931年9月21日にイギリスは金本位制を停止した。

その3日前の9月18日には満州事変が勃発している。

偶然ではない。

すべては戦争開始に向けて練られたシナリオ通りだったのである。

1931年(昭和6)12月13日、犬養毅政友会内閣が成立、高橋是清が5度目の大蔵大臣になった。

高橋は即日、金輸出再禁止を行った。同時に金の兌換も停止した。これは金と通貨の結びつきを断ち切ることを意味する。

日清戦争後の明治30年に松方正義が実施した金本位制を放棄したのである。

高橋自身、当時横浜正金銀行にあって金本位制の成立に参画している。

それを自らの手で金本位制を停止するはめになったのだ。

第一次大戦中とその後の一時的な金輸出禁止の時期を除けば、1897年(明治30)の金本位制樹立以来、わが国の通貨は一貫して金とリンクしていた。

金本位制とは、一国の貨幣単位を一定量の金と結び付けて、貨幣価値の安定をはかる仕組みをいう。

1897年のわが国の貨幣法では、金2分(0.75グラム)をもって1円とすることが定められた。

完全な金本位制のもとでは、紙幣と金貨との自由兌換が認められる。

誰でも、紙幣を日本銀行に持っていけば、それに相当する金貨と引き換えてくれる。

従って、日本銀行の紙幣発行高は、日銀の金保有量に拘束されることになる。

高橋はこの金と通貨の結びつきを断ち切り、管理通貨制度へと移行したのだ。

これは政府紙幣の発行に制度的な歯止めがなくなることを意味する。

高橋財政の根本方針は、経済の窮境を打開し、産業の振興を図ることであった。

そのためには、産業の正常な取引に必要な数量の通貨を供給しなければならない。

この通貨供給増加のため、失業救済その他土木事業等、「時局匡救費」を計上した。

財源は、これを公債増発に求めた。

これは、インフレーションの原動力となった。

この意味で、高橋財政は公債インフレ政策であった。

井上財政の緊縮デフレ政策とは正反対である。

金輸出再禁止後、わが国は種々の内外事情から巨額の経費を必要とするに到った。

経費の増加は、主として満州事件費および時局匡救費支出のためであった。

時局匡救とは、主に農村救済をめざす公共土木事業が中心で、道路建設・河川改修・治山治水・橋梁建設・港湾改良などの事業を起こして、貧窮農民や失業者に就労の機会を与えようとしたものである。

しかし、世界恐慌の影響のため経常歳入の減少は著しく、増税は困難であった。

巨額な臨時支出を賄うため、歳入補填公債(赤字公債)の発行を余儀なくされるに到った。

この高橋の政策はかなりの成功を収め、1932年末ごろから、日本経済はドイツとともに他国に先駆けて回復に向かった。

しかし、1935年(昭和10)以後になると、その矛盾がはっきりしはじめた。

高橋財政のもとで、景気は回復したが、その結果として資金の需要が増え、公債の市中での消化がにぶり、日銀にストックされる公債がしだいに増加したのである。

これ以上赤字公債の増発を続ければ、悪性インフレを引き起こすことが確実となった。

井上財政当時、一口に「公債60億円」といわれていた国債総額は、毎年およそ10億円近くを加え、1935年末の公債残高は98億円にのぼった。

高橋蔵相は、これ以上の公債増発は日本財政の破綻につながるとして、「財政の生命線」を死守すべく公債漸減方針をとなえ、1936年度予算編成では、公債発行を抑え、軍事費を削ろうとした。

1936年度の予算編成について、高橋は厳しい縮減方針で臨んだ。

高橋は軍部の予算復活要求に対して、

「予算も国民の所得に応じたものを作らねばならぬ。財政上の信用といふものは無形のものである。・・唯国防のみに専念して、悪性インフレを惹き起し、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して安固とはなり得ない。」

と、軍部を批判した。

軍部のいうことをきかない高橋蔵相は、急進派青年将校の怒りを買った。

1936年(昭和11)2月26日早暁、高橋是清は決起した陸軍皇道派青年将校に赤坂表町の私邸で、ピストルと軍刀で殺害された。

以後、日本は15年戦争、日中戦争、太平洋戦争と、破滅への道のりを転げ落ちていくことになるのである。

さて、この金解禁当時の日銀総裁が土方久徴、日銀副総裁が深井英五であった。

深井英五は土方久徴の後を受けて日銀総裁に就任している。

第12代 土方久徴(昭和3年6月12日〜昭和10年6月4日)

第13代 深井英五(昭和10年6月4日〜昭和12年2月9日)

土方久徴は甘露寺家を通じて岩崎家と姻戚関係にある。

また、甘露寺家を通じて、島津家と佐竹家と繋がっている。

やはり、土方久徴も三菱一族だったのだ。

土方久徴の妻まつは、三野村利三郎の伯母にあたる。

三野村家の先祖は幕府の御用両替商で紀伊国屋と称して三井家に仕えている。

利三郎の先々代利助は日銀筆頭理事を務めている。

土方久徴は三菱と三井を結び付けるキイ・パ−ソンの一人である。

一方、深井英五の経歴もまた興味深い。

深井はジャ−ナリスト出身である。

同志社卒業後、明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、明治33年、外報部長の時、蘇峰の推薦で当時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じている。しかし、3か月後、松方蔵相の辞職にともなって職を失し、1年間の浪人生活の後、松方の推薦により日本銀行に入行し、当時副総裁だった高橋是清に大いに能力を認められている。深井英五もまた、松方正義や高橋是清といった人脈と通じていたのだ。

第14代 池田成彬(昭和12年2月9日〜昭和12年7月27日)

三井の池田については、すでに述べた。池田成彬が日銀総裁だった時に日銀副総裁だったのが、金解禁当時に英米銀行団との間のクレジット設定に働いた津島寿一であった。津島は堀越家を通じて松方家と繋がっている。時の大蔵大臣が後の日銀総裁・結城豊太郎である。

第15代 結城豊太郎(昭和12年7月27日〜昭和19年3月18日)

東京帝国大学法科を卒業後、日本銀行に入行する。大正8年、大阪支店長兼理事に就任。大正10年に一転、安田善次郎亡き後の安田財閥の統帥者として招聘された後、日本興業銀行総裁を経て、日本銀行総裁に就任した。

ここで安田善次郎暗殺事件について述べておかなければならない。

安田善次郎は大正10年9月28日に、大磯の別荘で朝日平吾という青年によって殺された。

「然るに神のみぞ知る、この大正十年の夏は、彼にとって、最悪の年となった。九月廿八ここを訪れた朝日平吾なる若者から暴殺の厄に会ったのである。朝日は翁の知人の紹介状を持ってその前日にも来て断わられ、再度、訪問して執拗に面会を求めた。翁は、明日東京の保善社で会う旨を取次がせたが、朝日は『明日会うのも、今日会うのも、同じだ、今日、是非会いたい』と頑張り、翁も、根気まけして応接間に通した。

朝日の来意は、労働ホテル建設のための寄附金を求めるにあり、それに関する社会事業の計画を翁に話した。併し、翁はその話に納得ゆかず、しかも半ば強要的な寄付であって見れば、なおのことで、あとで触れるように晩年には寄付もするようになっていたが、この時は応じ難しと拒絶した。これを聞いた朝日は、突如八寸余の短刀を揮って、顔に二ヵ所、左胸部に二ヵ所の突き傷を与えた。翁は、深傷に屈せず、廊下から庭先に脱れたが、朝日は背後からおどりかかって咽喉部にとどめを刺したので、流石の翁も、血に染って倒れてしまった。朝日は、応接間にひっかえして、同じ短刀で自尽した。当時、この別荘には老夫人と二、三の小間使いの女中しかおらず、この俄かの騒動にいかんとも出来なかった」(織田誠夫著『人間・安田善次郎』経済展望社)

朝日は右翼的傾向を持つ社会活動家だった。

朝日は、斬奸状、「死の叫声」と題する遺書、それに内田良平、北一輝らに宛てた遺書を持っていた。

斬奸状には、巨富を貯めた安田が民衆にそれを還元しないのは許せないとして、自らの行動は天誅であると書かれてあった。

かくてこの稀代の銀行王は死んだ。善次郎の逝去後、長男の善之助(2代目善次郎)が、大正10年10月その後を継いで、安田財閥の統帥者となった。

ところが、財閥全体を率いていくには2代目善次郎は余りに穏健過ぎるので、2代目を補佐し、安田財閥をより一層育成すべき適材を求めねばならぬ、ということになったのだ。

そこへ登場したのが結城豊太郎であった。

結城豊太郎を保善社専務理事に推薦したのが、高橋是清と井上凖之助であった。

結城は大正10年10月、保善社専務理事に就任、12月に、安田銀行副頭取に就任した。

結城が安田銀行頭取に就任して最初に着手したのが、大正12年11月に実現した銀行大合同である。

大正12年11月1日、関係12行が、大合同を遂げて、新安田銀行が誕生した。

合同に参加した銀行名は、安田、第三、明治商業、信濃、京都、百三十、日本商業、二十二、肥後、根室、神奈川、保善である。

安田銀行の大合同による資本増大は、時期的には、他の大銀行に比べて遅れていたが、金融史上に見る画期的なものであった。

合同後の安田銀行は、五大銀行(三井、三菱、住友、第一、安田)のトップに躍り出た。第一次大戦後の大銀行の増資盛行は、急速に展開した日本産業の集積の金融部門への反映であり、戦後急激に増大した銀行不安に対する対策でもあった。

結城はこの大合同に際して、かなり思い切った刷新、改革を行い、近代的経営を導入した。

支店出張所の整備、支店統制機構の新設、業務組織の更新、人事の改善と増強、専門学校や大学卒業者の採用、保善社の調査機関の充実等である。

しかし結城の「自分は国家的観点から仕事をする、つまり安田の為に仕事をするのでなく、安田の組織を国家のために役立たせる為に運用するのだ」という考え方は、一族、部内の総反撃に会って、遂に結城は辞めねばならぬはめになった。

こんな人間が安田財閥の中枢に迎えられたのも、高橋是清の推薦があったからである。

高橋が日銀の建築事務主任だった頃、安田善次郎が日銀監事、新築総主管だったので、自然に二人の仲も良くなった。

安田善次郎は高橋のことを立派な人だと称賛し、信頼し、何かにつけて相談し意見を求めたと言う。

高橋是清はやはり人格者であったようだ。

この仲良し二人が後に共に暗殺されたことを思うと、感慨に耐えない。

さてこの辺で、結城豊太郎の家系図を調べてみよう。

結城豊太郎は藤山愛一郎を通じて中上川彦次郎と一族である。

中上川彦次郎の息子中上川小六郎の妻は、松方正義の孫娘富子である。

中上川彦次郎の娘の艶は池田成彬に嫁いでいる。

藤山愛一郎の父・雷太は、慶応義塾で福沢諭吉の感化を受けて、帰郷後は県会議長になっている。

その後、実業界に転じて中上川彦次郎に抜擢されて芝浦製作所長、大日本製糖会社社長、幾多銀行の重役となり、貴族院議員に勅撰されている。

藤山愛一郎は戦後、外務大臣になっているがその実弟の藤山勝彦がフリーメーソンなのである。

「大日本製糖会長の藤山勝彦氏はいう。『入会は17年前。メーソンでした田中元彦(勝彦氏の実弟。NCRの元社長)に、国際的組織ですし、いろんな有名人が入っているからとすすめられました」(赤間剛著『フリーメーソンの秘密』)とある。

するとやはり、藤山財閥に繋がる結城豊太郎もただ者ではなかったことになる。

結城が安田に入ったのは、善次郎亡き後の安田財閥を解体、乗っ取ろうとしたのであろう。

この時期に結城系の人脈が多数、安田に送り込まれたことは想像に難くない。

第16代 渋沢敬三(昭和19年3月18日〜昭和20年10月9日)

渋沢敬三は、財界の指導者・渋沢栄一の孫である。戦後は大蔵大臣になっている。渋沢敬三の妻登喜子は岩崎弥太郎の孫である。三井の渋沢と三菱の岩崎は一族を成していたのである。

以上、日銀創設時から太平洋戦争直後に到る歴代日銀総裁の経歴を調べてきた。

その過程で判明したことは、歴代日銀総裁の背後に常に三菱財閥の影がちらついていたことだ。

三菱財閥本体からも3人続けて日銀総裁を出している。

結論としては、日本銀行は日本の銀行ではなく、三菱の銀行であったことになる。

三菱財閥が日銀をコントロ−ルして行ったのは、日本を太平洋戦争へと導くことであった。

そのために恐慌を引き起こしてインフレ政策を誘導し軍事費を増大させた。

三菱財閥は軍部、右翼の怨嗟の的になったが、三井財閥の影に隠れて、目立たないようにうまく立ち回った。

ロンドン海軍軍縮条約時には一族が勢ぞろいしたが、この時の幣原外相の英米協調外交は戦後の日本の外交路線となっている。

日本軍部は戦犯として裁かれたが、戦争で巨利を博した財閥は戦後の財閥解体を生き延びて復活した。

では三菱財閥が太平洋戦争を演出した理由は、金儲けにあったのであろうか。

勿論、それも理由の一つではあるが、もっと重要なことは、三菱は一部外国勢力の手先となって暗躍したという事実にある。

英米のユダヤ金融財閥は、日本を戦争で打ち負かし乗っ取ってしまおうと計画したのだ。

これは経済に限らず、政治、軍事、教育、文化、宗教その他全般に当てはまる。

戦前の価値観はすべて否定され、戦後は欧米的なものは無条件で良いものだと考えられるようになったことは、筆者があらためて指摘するまでもないだろう。

極論すれば、二度と戦前的な価値観に日本人が染まることのないように、あの不毛で悲惨な戦争を日本人に体験させたともいえる。

したがって、一口に乗っ取りといっても、決して経済的側面にばかり目を向けていてはならないのである。

一部外国勢力の手先は、財界、政界だけでなく、その他様々な分野に散らばっていたと考えられる。

それが一致協力して、臨戦体制を構築していったのである。

その一つの例がマスコミである。

金解禁を賛美して日本を未曾有の不況に突き落とし、戦争を煽って国民の理性を失わせて日本を破滅へと導いていった。

なかでも、朝日、毎日といった大新聞の責任は重い。

ここで、朝日新聞の創業者一族の家系図を描いてみよう。

朝日新聞社主・岡部長挙は朝日新聞創業者の村山龍平の養子になっているが、その兄の岡部長景が加藤厚太郎の姉悦子と結婚しているのだ。

加藤厚太郎の父加藤高明が岩崎家から嫁をもらっていることはすでに述べた。

加藤高明はまた、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の第4代社長も務めている。

岡部長景の弟、岡部長章は岩崎弥之助の孫娘妙子を嫁に貰っている。

朝日新聞も毎日新聞も同じ一族の手で動かされてきたことが良く分かる。

一方、上野理一は、村山龍平を助けて朝日新聞社を起こした人物だが、その長男精一は九鬼家から嫁を貰っているが、この九鬼家は松方家と姻戚関係にあるのだ。

これまた、財閥とマスコミの結婚を証明していて興味深い。

この系図には、伊藤忠商事の伊藤忠兵衛の姿も見える。

最後に読売新聞について見てみよう。

読売新聞の社主正力松太郎は警視庁出身であるが、正力松太郎の女婿が三菱銀行副頭取関根善作の三男関根長三郎であり、関根家は小坂家

を通じて朝日新聞の岡部家と繋がっていることは既に述べた。

これらをまとめて一枚の系図として描いてみると、何とすべてがひと続きになった家系図が描けるのだ。

この系図には、三菱財閥、三井財閥、森村財閥、麻生財閥、古河財閥、そして安田善次郎亡き後の安田財閥が登場している。

しかしこの系図にまったく現れないのが、何故か住友財閥なのである。

この系図にはまた、昭和天皇も存在している。

昭和天皇は久邇宮良子を妃に迎えたが、当時皇太子であった裕仁と久邇宮良子の婚約に反対したのが、枢密院議長だった元老・山県有朋であった。

良子の母方にあたる旧薩摩藩主・島津家には色盲の遺伝があるからというのだ。

これが外部に流れ「宮中某重大事件」と称されることになった。

ところが、山県が婚約に反対した真の理由は、久邇宮良子が中川宮(賀陽宮)朝彦の孫(朝彦の4男・稔彦の長女)であったことによる。

幕末期の親王朝彦は、孝明天皇の背後にあって朝廷の実権を掌握、1861年(文久3)の会薩クーデターをくわだてるなど、長州藩に多大な損害をもたらした公武合体運動の陰の主役であった。

孝明天皇を廃し皇位簒奪の陰謀をめぐらしたともいわれ、倒幕派の維新政府にとって、公武合体派の黒幕である親王朝彦こそ、もっとも不気味な存在だった。

岩倉具視はひそかにスパイを送り込み、その動向を監視させた。

ついに朝敵・徳川慶喜への密使を逮捕して密書を押さえた。

暗号で綴られた密書の内容は、榎本武揚指揮する幕府艦隊を京阪の地へ急行させ、京都を制圧して玉(明治天皇)を奪わんとするものだったという。

1872年1月、朝彦は皇族に復し京都在住を許され、1875年5月8日、天皇の詔勅により親王に復帰して久邇宮家を起こした。

1945年8月17日、敗戦処理内閣を組閣した久邇宮朝彦の子息・東久邇稔彦は、冷遇のなかで苦しみ続けて死んだ父の姿に鑑み、首相への就任を強く躊躇したという。

さて、この東久邇稔彦がフリーメーソンだったのである。

「1957年、15のフィリピン系ロッジが全会一致で日本グランド・ロッジの創設を決議した。東久邇宮は、『フリーメーソンの活動が日本の民主化と社会の道徳意識の向上を目ざすため促進せねばならない」と会議で演説した」(『フリーメーソンの秘密』)

1921年2月10日、宮内省は皇太子妃問題に変更なしとの発表を行った。

皇太子妃問題の決着は、維新の際に賊軍とされた公武合体派の最終的復権、天皇家への吸収につながっていく。

1928年9月28日、秩父宮は旧会津藩主・松平容保の孫・松平勢津子と結婚。

1930年2月4日、高松宮は15代将軍・徳川慶喜の孫・徳川喜久子と挙式の宴をあげるのである。

この描かれた数家族が、明治から昭和へ到る日本の歴史を動かしてきた一族である。

そしてこの一族が戦争を引き起こした張本人である。

またこの同じ一族は、ロンドン海軍軍縮会議に結集した一族でもある。

会談当時の内大臣牧野伸顕、外務大臣幣原喜重郎、駐英大使松平恒雄はこの一族だ。

一族がロンドンで話し合ったことが軍縮問題でないことだけは確かであろう。

彼らはいかに日本を戦争に導くかの指南を英米全権団から受けるために、海を渡ってロンドンに赴いたのである。

この一族が英米ユダヤ財閥の意向を受けて、日本を戦争へと駆り立てていった者たちである。

そして愚か者の陸軍の軍人を操って太平洋戦争を遂行させ、その罪はすべて軍部に負わせて戦後ものうのうと生き延びた輩である。

A級戦犯として処刑された陸軍軍人は大衆の目を誤魔化すための生贄であり、彼ら一族こそ真の意味でのA級戦争犯罪人だったのである。

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■d-10-2 三菱フリーメーソン説②

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