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■d-10-5 三菱フリーメーソン説⑤

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2006-09-24

以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.5』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)

亡国日本の悲しみ

1945年8月6日、西太平洋テニアン島の基地を発して広島上空に到達したB29「エノラ・ゲイ」が原爆「リトルボーイ」を投下、一瞬の内に、広島全市の6割が破壊しつくされ、爆心地から半径500・以内の人々はほとんどが即死した。

1950年の広島市役所発表によると、死者は推定で24万7000人。

残された原爆症患者をはじめ被害者の数はこれを大きく上回る。

8月9日、広島に続いて、長崎にも原爆「ファットマン」が投下された。

長崎では、7万3884人が死亡し、7万4909人が重軽傷を負った。

8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日正午からのラジオ放送で、天皇自らが録音した終戦詔書の「玉音放送」が流れ、国民は戦争が終わったことを知る。

太平洋戦争によって日本は旧植民地、属領等の領土45%を喪失し、残された国富も空襲等による直接・間接の損害を受けた。

敗戦時における日本経済の被害額=損失額を経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によって概観すると、戦死、戦病死者は陸軍114万人。

海軍41万人、空襲等による死者30万人、負傷行方不明者を加えると合計253万人。

在外邦人等を加えて300万人近いと推測されている。

物的被害のうち領土は旧植民地、属領等を49%喪失し、一般物的資産は空襲による建物、生産設備、公共施設、船舶等の破壊焼失による直接被害=損失は487億円(終戦当時価格)、間接的被害=損失が156億円で、直接間接の戦争被害=損失は643億円になる。

純軍事的資産の損失は艦艇、航空機等404億円。一般兵器296億円、合計700億円を喪失しているので、これを加えると物的資産の損失額は1340億円となる。

海外引揚者と復員によって敗戦後2年間に600万人をこえる人口増、その上に軍需会社からの大量解雇が加わって、潜在失業を含めて1300万人をこえる失業者などの諸条件が重なりあい、ほとんどすべての人は竹の子生活を余儀なくされていた。

占領行政下の日本経済は二つに区分して考えることができる。一つは「傾斜生産方式とドッジ・ライン」の時期であり、もう一つは「朝鮮戦争特需と独禁政策緩和」の時期である。

昭和20(1945)年8月の敗戦から25年はじめのドッジ・ライン実施までの時期は、戦後の混乱によるインフレーションと傾斜生産方式による経済運営が行われた。

傾斜生産方式とは、アメリカの援助によって重油を輸入し、まず鉄鋼を増産し、炭鉱へ鋼材を重点的に配給し、それによって石炭の増産をはかり、さらに鉄鋼の生産にその石炭を特別に増配するという経路を通して、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に増大させ、それを起動力にしてインフレによる日本経済の縮小再生産をくいとめ、逆に拡大への道を一歩踏み出そうと意図したものであった。

資金面でも、鉄鋼・石炭を中心とする基礎産業の設備復旧と補修のために、これら基礎産業へ優先的に、復興金融公庫を通じて傾斜融資された。

このころ占領軍の対日政策の転換があり、日本を東洋の工場にし、経済面で反共の防壁にするため、日本を資本主義的に復興させるという政策が進められた。

アメリカのデトロイト銀行総裁ドッジは、昭和24(1949)年2月、ロイヤル陸軍長官とともに来日した。

ドッジは戦後の日本経済に徹底的な外科手術を施し、国内市場を縮小させて企業の自主的な合理化を促進し、輸出の拡大をはかろうとした。

このドッジの勧告はドッジ・ラインと呼ばれている。

具体的には、1949年度について超均衡予算を編成し、単一為替レート制度を制定することの二つを内容としていた。

このドッジ・ラインによって、昭和22年当時、1ドル当たり180円のものから600円にいたるまで、極めて広範囲に分散していた個々の輸出入品の円・ドル比率は、24年4月25日から1ドル=360円という単一為替レート制度に切り換えられ、以後輸出入価格は、国際価格と正常な連携を保つこととなった。

これは、円の国際価値を安定し、アメリカの資本導入と技術導入のための徹底的な地ならしをはかることになった。

その結果、インフレーションは収束したが、猛烈なデフレーションで滞貨は増え、購買力は不足し、そのうえ戦後第一回目の世界的な景気後退期と重なりあったために、不況は深刻を極めた。

24年2月から25年3月までの14ヵ月間に企業整理件数1万1000件、解雇者は51万人をこえた。

そこへ25年6月、朝鮮戦争が勃発するのである。


「終戦直後の昭和21年、アメリカの国務・陸軍・海軍三省連絡委員会に提出された視察団報告書には、『輸出振興と原料輸入の狂奔が日本帝国主義の原動力となり、この結果、富と経済的権力が一部の財閥の手に集中されたのであって日本の侵略戦争に対する相当の責任もここにある』と明記されており、とりわけ独占資本には『非軍事化』の観点からきびしい判決がくだされていた。ところが、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の演説になると、つぎのように顕著な変化がみられる。『日本の広範な非軍事化と、日本を自立しうる国家たらしめるという二つの目的のあいだには、避けがたい対立面があらわれてきた。・・産業の集中排除を極端に行なえば、戦争遂行能力は破壊されるが、同時に工業の能率を下げ、したがって工業生産全体の低下と輸出余力の低下をまねいて、結局日本の経済的自立をおくらせるおそれがある』。これは明らかに日本経済の『非軍事化』要求を犠牲に供しても、独占資本の経済的自立化の道を選択したほうがよいという声明にほかならない。

かくて『経済民主化』過程のうち、資本のみがいちはやく免罪され、昭和23年はじめごろより、それまでのきびしい財閥解体・過度経済力集中排除過程が緩和の方向をたどり、昭和26年7月にはついに政府は『財閥解体完了』声明を出し、持株会社整理委員会の解散を命ずるにいたる。もはや独占力の強化は悪ではなくなり、日本経済は晴れてビッグ・ビジネス時代を迎える」(宮崎義一著『日本経済の構造と行動』筑摩書房)

ここで、政府が「財閥解体完了」声明を出し、持株会社整理委員会の解散を命じた昭和26年という年に注目して欲しい。

政府債務総額は昭和20年度末から26年度末の間に3.24倍に増加しているが、この間に進行したインフレーションの結果、累積債務は目減りしたから、26年度末残高の実質値は、20年度残高の11%の大きさに減少している。

内国債だけについてみると6.3%に過ぎない。

また、国民経済にとっての国債の実質的な大きさを示すものとして、国債残高(内国債と外国債)を国民所得と比較してみると、昭和19年度の189%から、21年度に48%となり、以後、この期間に漸減して、26年度末には8.2%となっている。

すなわち、政府は戦後インフレーションによって、国民から資産を収奪し、終戦直後に債務処理問題として懸念された国債の負担問題は、少なくとも国庫の観点からみるかぎり、雲散霧消したのである。

この戦後インフレーションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。

また、国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。

こうして政府債務が国民の犠牲のもとで無事に処理された後、いよいよ我が財閥が復活したのだ。

ビッグ・ビジネスは、昭和28−29年の不況を契機にどっと現れる。

独占禁止法の改訂および運用上の緩和によって、不況カルテル、輸出カルテルなどの結成もあり、昭和27年には、旧財閥名称が再び使用できるようになった。

昭和27年12月、大阪銀行が住友銀行に改称したのを皮切りに、28年7月、千代田銀行が三菱銀行に改称、29年1月、帝国銀行が三井銀行に改称した。また、29年5月には旧三菱商事系四社の合併が認められ、30年8月には旧三井物産三社が合同に踏み切り、さらに同年9月、丸紅と高島屋飯田の合併が続く。

この戦後インフレーション政策当時の日銀総裁だったのが、第18代日銀総裁(昭和21年6月1日〜昭和29年12月10日)一萬田尚登である。

この写真をご覧頂きたい。

机に向かって何やら書類に署名しているのは、サンフランシスコ講和条約の文書に調印する吉田首相である。

吉田茂は牧野伸顕の女婿である。

時は昭和26(1951年)9月8日、この後、吉田は日米安全保障条約にも調印した。

吉田の後ろに写っているのが、一萬田尚登、徳川宗敬、星島二郎、苫米地義三、池田勇人である。

星島二郎氏は、第一次吉田内閣の商工国務大臣である。また、フリーメーソンでもあった。

徳川宗敬は参議院議員であるが、長女の美代子が甘露寺家に嫁いでいるのだ。

すなわち、徳川宗敬も岩崎(三菱)一族だったことになる。

苫米地義三は民主党最高委員にして衆議院議員である。

苫米地氏の父親もただ者ではない。興銀出身の和光証券会長・苫米地和夫である。

池田勇人については説明の必要はないだろう。後の首相で国民所得倍増計画のあの池田勇人である。

池田勇人は近藤家を通じて甘露寺家と姻戚関係にある。岩崎久弥の二女澄子は甘露寺家に嫁いでいる。

池田勇人はまた、ブリジストンの石橋家を通じて藤山愛一郎と親族である。

問題の一萬田尚登であるが、昭和29年12月第一次鳩山内閣の大蔵大臣に就任し第二次第三次鳩山内閣に留任、昭和32年7月岸内閣の大蔵大臣に認証されている。

ちなみに元首相、鳩山一郎はフリーメーソンである。鳩山一郎のスポンサーが石橋一族の石橋正二郎であった。

正二郎の長女安子が、鳩山一郎の長男威一郎に嫁いでいる。

一萬田尚登の二女朝子は井上五郎長男の琢郎(東京電力勤務)に、三女栄子は井上五郎三男安城(三菱商事勤務)に嫁いでいる。

井上五郎は中部電力相談役、動力炉核燃料開発事業団理事長を務めている。

前にも触れたが、日本の電力会社には戦前に外資が導入されている。電力会社はどうも胡散臭いのだ。

ビッグ・ビジネス時代が開幕した昭和30(1955)年という年は、戦後激動期の体制が再編成された年であった。

第二次鳩山内閣が成立し、保守合同が行われて、自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成された。

これは政界と財界をつなぐ資金ルートを、一本の太いパイプに強化して、政界への影響力を不動のものにしておきたかったビッグ・ビジネスの年来の主張であった。

また、単独講和か全面講和かで左右に分裂していた社会党が4年ぶりに統一され、いわゆる「55年体制」が作り上げられた。

労働戦線でも、民間6単産が賃上げ中心の春闘方式を始めている。

翌31年には、経済企画庁が経済白書「日本経済の成長と近代化」を発表、「もはや戦後ではない」が流行語になった。

昭和31(1956)年の神武景気から、「高度成長期」が幕を開く。

高度成長を主導したものは、重化学工業を中心とする民間設備投資であった。

日本経済は昭和31年以降、年率平均10%程度の成長を遂げ、昭和37年には、実質国民総生産は約倍増、製造工業生産に至っては三倍弱となった。

この間の欧米先進国の実質国民総生産の増加は、アメリカ14.9%、イギリス15.7%、フランス25.2%に過ぎず、戦後日本と並んで世界経済の三大奇跡とまでいわれた西ドイツ、イタリアでさえ、仲良く41.6%ずつだった。

日本の経済成長がいかに凄まじかったか分かるだろう。

この高度経済成長も、昭和40(1965)年頃から翳りが見え始める。

この年の不況は深刻で、山一証券など証券会社に対する不安が高まり、債権の運用預かりなどに対して大量の解約が殺到した。

このため山一証券の資金繰りは極度に悪化し、倒産の危機に見舞われそうになった。

日本銀行は同年5月、山一証券に対して特別融資を適用することを決定した。

特別融資というのは、日銀が信用恐慌を防ぐため、日本銀行法第25条により、無担保・無制限の資金を貸し出すことで、この適用は昭和6(1931)年の金融恐慌以来のことであった。

かくして昭和40年の不況は、ドッジ・ライン以来の均衡財政主義を崩壊させ、戦後初の赤字国債(二千億円)が発行されたのである。

そしてドッジ・ラインのもう一つの柱である単一為替レート制度(1ドル=360円)も、昭和46(1971)年のスミソニアン合意で崩れさった。

為替レートが16.88%引き上げられて、1ドル=308円になったのだ。

固定相場制崩壊への序曲は、1967年の国際通貨危機に端を発する。

1967年11月18日、イギリスの通貨ポンドが14.3%切り下げられて、1ポンド=2ドル80セントから2ドル40セントになった。

イギリスは、第二次世界大戦後4.03ドルの価値を持っていたポンドを、わずか18年の間に2回の切下げで2ドル40セントと当初の6割までに低下させた。

イギリスは、この平価切下げと同時に合計30億ドル(後に40億ドルに増額)に及ぶ借款をIMFとその他の国々に要請した。

債権国は、そのための条件として公定歩合を8%という「超危機レート」に引き上げ金融引き締めを行うとともに、9億2300万ポンドの増税を行い、国防費から医療費、義務教育費にまで及ぶ広範囲の政府支出の削減(7億1600万ポンド)を断行し、国際収支の均衡を達成する旨約束させられた。

翌1968年1月16日、イギリス首相は緊縮政策を発表、スエズ以東のイギリス駐留軍の1971年までの撤退を発表した。

これはイギリスが世界戦略から離脱したことを意味する。

1967年の通貨危機は、ドル不安に発展し、アメリカから金が一挙に流出した。

翌1968年1月1日、アメリカ大統領ジョンソンは特別教書で、合計30億ドルに及ぶドル防衛政策を発表して国際収支改善を要請した。

2月15日に公表された1967年の米国際収支赤字は35億7000万円で戦後2番目の大きさだった。

しかしジョンソンのドル防衛政策が効力を発揮する前に、アメリカはゴールド・ラッシュに見舞われる。

1968年3月6日から14日までの9日間にロンドンで7億ドル、パリ市場、チューリッヒ市場を合わせると約10億ドルに達する大量の金がアメリカから流出した。

3月14日、アメリカの公定歩合は5%という40年ぶりの高水準に引き上げられた。

ジョンソンはホットラインを通して、ウィルソン英首相に3月15日から自由金市場を閉鎖するよう要請した。

ウィルソンはこれを受諾して、3月15日の銀行休日、ロンドン株式取引所閉鎖、そして自由金市場の閉鎖を決定する。

この措置は翌16日(土)まで続いた。

3月16日、フランスを除く金プール7ヵ国会議がワシントンで開催され、その結果に従って3月18日、アメリカは金プールの停止、すなわち金に関する自由価格と政府間取引に用いられる公定価格の二重価格制の採用に踏み切った。

民間向けの、1オンス=35ドルの相場での金とドルの交換の約束をジョンソンはこの時破棄したのである。

しかし、同時にアメリカ政府は公的金融機関すなわち通貨当局との取引においては従来通り1オンス=35ドルの金の売買を続けることを言明した。

ジョンソンは3月31日のテレビ放送で涙を浮かべて、北ベトナム爆撃停止と大統領選不出場を発表し、この通貨危機にアメリカ国民が耐え忍ぶことを訴えた。

そして遂に、IMF(ブレトンウッズ体制)になお残されていた公的金融機関との間の金・ドル交換も、1971年8月のニクソン・ショックによって断ち切られることになる。

1971年8月15日、アメリカ大統領ニクソンが、テレビを通じて全米に、ドル防衛策の一環として金・ドル交換の一時停止をはじめとする新経済政策を発表し、世界に大きなショックを与えた。

ドル防衛策の内容は、国際的には・ドルと金の一時的な交換の停止・ドルと他国通貨との為替レートの変更で各国と協議に入る・10%の輸入課徴金制度の導入・海外援助の10%の削減、である。

国内政策としては・賃金・物価を90日間凍結する・連邦支出の47億ドルを削減・1973年度実施予定の個人所得税減税を1年間繰り上げ実施する、など6項目。

ニクソンの新経済政策が発表されると、翌16日の東京外国為替市場は、ドル売り円買いが続き、日銀は史上最高の4億5000万ドルを買い支えた。

8月28日、政府は対ドルレートの変動相場制への移行を行い、それまでの1ドル=360円の固定相場時代にピリオドを打った。

この日、政府は変動相場制移行を暫定的措置とし、円の切り上げ幅などは一切触れなかったが、ロンドンの為替市場では1ドル=300〜330円に急騰し、ニューヨーク市場では一時、取り引きが止まった。

同年12月18日、ワシントンのスミソニアン博物館で2日間にわたって開かれていた10ヵ国蔵相会議で、日本の対ドルレートが1ドル=308円に決定した。

この決定で8月28日から変動相場制に移行していた日本の外国為替市場は、1ドル=360円から一挙に16.88%もの大幅切り上げが確定、20日から新レートが実施される。

このスミソニアン体制も1973年には崩壊する。

1973年2月12日、アメリカ財務長官シュルツがドルの10%切り下げ措置(金1オンス=38ドルから42.22ドル)を発表する。

14日、これを受けて日本政府が円の変動相場制移行を決定した。

これは事実上の円レート再切り上げを意味する。

新たな円の基準相場は、1ドル=277円22銭。

1971年12月、ワシントンのスミソニアン会議で決められた1ドル=308円(16.88%の円切り上げ)の固定相場制は、わずか1年2ヵ月で放棄された。

この日の円相場は271円22銭だった。

前年度中に64億ドルもの貿易赤字を出したアメリカは、円切上げを必要としたのである。

先に、ニクソン・ショック後の日本の外為市場は、ヨーロッパ各国の外為市場がすべて閉鎖されている中で、一人6日から27日まで、引き続き開かれ、しかも1ドル=360円レートでドルを買い支えたことを述べた。

「これは明らかに日本政府の大きな政策ミスであり、なぜこのような愚行がまかりとおったかは、戦後日本経済史最大の“謎”である」(『日本経済の構造と行動』)

このため、わずか10日間ほどの間に約46億ドルもの外貨が一挙に日本に流入し、円との交換を要求したのである。

何故か。

円レートが切り上がれば、ドル貨を一度円貨にかえて、再びドル貨に転換するだけで、ドル勘定において多額の差益を生むからである。

この時の日銀総裁だったのが、第22代日銀総裁(昭和44年12月17日から昭和49年12月16日)佐々木直である。

佐々木直の長男は氏家家から嫁を貰っているが、氏家家は石川家と姻戚関係にあり、石川家は鹿島建設の鹿島家と、鹿島家はベンツの梁瀬家と姻戚関係にある。

ヤナセ自動車の元社長、梁瀬長太郎はフリーメーソンである。

この系図にはまた、フリーメーソンの下条康麿の名も見える。

するとこの日本への外資の大量流入は、やはりフリーメーソンの陰謀だったことになりはしないだろうか。

この外資の大量流入が、土地と株式のバブルを生んだのである。

昭和46(1971)年になって、日銀海外資産が3.68兆円も急増した。

これは、ほぼ100億ドル以上の外貨の急増に見合うものだ。

ニクソン・ショック後の日本経済は、そのマネー・サプライを外貨増大分だけ一挙に膨張させて、国内の資金をダブつかせた。

しかもこの過剰な資金は大部分日銀から直接企業の手に入ったものだ。

何故なら、外貨を入手し、それを円レートの切上げがある前に円貨と交換すべく迫ったのが商社およびメーカーであり、また、商社および輸出メーカーは、円レートの引き上げを見込んで、積極的に輸出代金の先取り(リーズ)の形式で、大量のドルを国内に持ち込んだからである。

昭和46年度の日本経済は不況であった。実質成長率は5.8%で、昭和40(1965)年以来の低さであった。

過剰な手許現金を入手した企業と商社は、この不況下で設備投資意欲はわかない。

そこで、次に銀行からの借入金の返済を考えたが、取引銀行の圧力が強くて、その抵抗を押してまで返済することは出来ず、取り合えず銀行預金にした。

借金の返済に向けられなかった企業や商社の預金の増加分は、ほとんど法人による土地買いおよび株式買いの資金に向けられた。

当時、政府は不況対策のため、金利を引き下げ財政を拡大したが、企業の設備投資は増加せず、むしろ株価引き上げのきっかけを作ってしまった。

この法人の株式買いは、不況下にもかかわらず、株式市場を活発化させた。

昭和47年2月末に東証ダウ3000円突破、途中ポンド・ショックで暴落したが、8月には4000円台に上昇し、12月に5000円台の大台に乗せた。

これは、ダウ式平均株価の高さそのものにおいて新記録であるばかりか、上昇幅、上昇率においても証券市場空前の画期的な大記録といわれている。

土地も値上がりした。昭和47(1972)年6月11日、通産大臣の田中角栄が『日本列島改造論』を発表すると、この前後から地価が急騰しはじめた。

昭和46年度の年間地価上昇率は12.8%であったが、47年4月から9月までの半年間だけで8.4%の上昇率を示した。

同じ半年間の六大都市の地価上昇率も、10.3%を記録している。

それは、46年10月から47年3月までの半年間が6%であったことから明らかなように、急騰は4月以降生じたものといえる。

『日本列島改造論』に触発されて、土地買いに走ったのは、不動産業者、私鉄、建設会社をはじめ繊維、銀行、保険、非鉄金属などあらゆる業種の企業に及んだが、とりわけすさまじかったのは商社の土地買いであった。

『日本列島改造論』は、昭和60(1985)年に日本のGNPの水準を304兆円(1ドル=308円レートで換算すると約1兆ドル)に高めることを目標として、基幹資源産業(コンビナート)を北東地域(苫小牧東部、むつ小川原町、秋田湾など)と西南地域(周防灘、山口、福岡、大分、志布志湾など)に、造船重機械流通加工型コンビナートを臨海地域(橘湾、宿毛湾、金武湾など)に、そして内陸型工業を農村地帯に配置して、「過密・過疎の同時解消」を企図したものである。

この書物は、その中に指定された地域の土地は、今買い占めても将来値上がりすること確実であるという安心感を企業に植え付けた。

日本の会社は一丸となって、不動産業に手を着けた。

田中角栄は財界の支持を受けて総理となり、『日本列島改造論』は、日本列島の土地の先物買いのバイブルとして、ベストセラーになった。

この土地、株式、商品等の投機利益が企業の利潤として蓄積されて、その後の日本企業の海外投資の源泉となったのである。

大蔵省発表の海外直接投資許可実績は、昭和43年度が5.57億ドル、44年度が6.67億ドル、45年度が9.13億ドル、ニクソン・ショックの年の46年度には減少して8.58億ドル、47年度にいたって突然、23.38億ドルという高水準を示した。

昭和47年に海外直接投資が急増するにいたったのは、円レートの大幅切上げによって日本企業の輸出価格競争力が急速に低下したことが決定的要因であった。

「価格が安いうえに品質が良いという評判で世界市場で売りまくってきた日本の家庭電器メーカーも円レートの切上げを契機に本格的な海外直接投資に踏みきったようである。

たとえば東京芝浦電気は、従来、川崎・小向工場で生産していた白黒テレビを48年末までに打ち切り、韓国テレビ(出資比率、日本側80%、韓国側20%)に全面的に移す方針を決定した。これは、単に韓国の国内市場向けの小規模なものではなく、白黒テレビでは世界最大の能力を持ち、そこから日本を含む世界の市場へ向けて輸出する基地となるべき工場である。

また、国際事業本部を本社機構に設置した日立製作所は、シンガポールに家庭電器の大規模な輸出拠点となる『日立コンシューマー・プロダクツ・シンガポール』の設立を急ぎ、テレビ、ラジオ、テープレコーダー、部品等の量産を開始する計画を進めていた。

円切上げ後のこのあわただしい動きは、ひとり家庭電器メーカーにとどまらない。自動車メーカーも、繊維メーカーも、同じ情勢を反映して現地生産への動きが活発であった」(『日本経済の構造と行動』)

この日本企業の海外進出を側面支援したのが、公害事件であった。

1960年代に始まる高度経済成長は、数多くの公害事件を引き起こした。

公害は日本の法律が予定しなかった事態であり、被害者の救済、加害者の処罰、事件発生の抑止など、いずれをとっても十分な対応がなされなかった。

そこで健康被害を受けた住民たちは、全国各地で続々と損害賠償請求訴訟に踏み切り、1967年6月新潟水俣病訴訟、同年9月四日市公害訴訟、1968年3月イタイイタイ病訴訟、1969年6月水俣病民事訴訟、といった大規模な民事裁判が提訴された。

これらの訴訟は、四大公害裁判と呼ばれた。

なお、裁判の結果は、いずれも原告勝訴に終わっている。

日本企業は、世論の高まりを見せた公害防止の要求に応えてそのための研究開発投資を実行する途を閉ざして、そのつけを東南アジア諸国を始めとする第三世界に負わせたのである。

この醜い企業エゴが東南アジアの反発を招かないわけはない。

1974年1月7日、田中首相が東南アジア5ヵ国歴訪に出発したが、1月9日、田中はタイの首都バンコクで、「経済侵略反対」「タナカ、カエレ」と叫ぶ学生らの激しい反日デモに迎えられた。

日本商品がタイの総輸入の半分近くを占め、対日赤字が毎年2億ドル(約580億円)にものぼる日本の対タイ経済政策に、学生たちは激しく反発。

約5000人のデモ隊は首相一行の宿舎前に押しかけ、田中の似顔絵や日本車の模型を次々に焼いた。

田中は、この後16日までシンガポール、マレーシア、インドネシアを歴訪するが、各地で反日デモに見舞われる。

インドネシアのジャカルタでは、1万人のデモ隊が暴動化し、日本大使館の国旗が引きずり降ろされ、日本車など200台以上が焼かれる騒ぎとなる。

日本企業の海外進出は、日本側にとってもマイナス面が大きい。

それは産業の空洞化を招くことになるからである。

1971年のニクソン・ショックは、日本国内だけでなく世界的なインフレーションを招いた。

ニクソン・ショックは単に金・ドル交換停止に止まるものではなく、その後大量のドルを散布することになったからである。

先進六ヵ国政府保有の金・外貨準備高の動きを示すと、アメリカとイタリアを除く四ヵ国(西ドイツ、日本、フランス、イギリス)政府の金・外貨準備高が、ニクソン・ショック後急上昇している。

これは大量のドル撒布が行われたことを意味する。

先進工業六ヵ国の金・外貨準備高は、ニクソン・ショック後わずか2年間で391億ドルも急増し、その内約360億ドル程度が主としてドルの流出による国際流動性の激増だった。

これは、マルク買い、円買い等の激しい通貨投機による部分が少なくなかった。

投機筋はアメリカ系多国籍企業だった。

アメリカ系多国籍企業の所有する短期資産額(1971年)は1896億ドルに及び、当時先進工業六ヵ国政府が所有していた金・外貨準備高(483.81億ドル)の3.9倍にも達していた。

多国籍企業が自らの資産のごく一部を一国通貨から他国通貨に変えただけで通貨危機を引き起こした。

このドルの大量撒布により、ロンドン金自由市場においては、金価格がニクソン・ショック以後急速に上昇した。

1970年末、1オンス=37.375ドルであった金価格は、2年7ヵ月後の1973年7月現在で115.60ドルに急騰した。

実に3倍強であった。

金価格急騰の原因は、ドルの大量撒布がユーロ・ダラー市場及びアジア・ダラー市場に資金供給量の増大をもたらし、金利低下の圧力となったからである。

このような状況のもとで、ドル建預金保有者の目が自由金市場へ向き、金投機を誘発したのである。

10年以上の長期間にわたって低落ないし低迷を続けてきた国際原料品価格(第一次産品価格)も、ニクソン・ショック後急テンポに上昇を続けた。これは国際通貨の変動に伴う投機買い、ないしヘッジ買いの激化による。

そして、ニクソン・ショックによる世界的インフレーションに追い打ちをかけたのが、オイル・ショックであった。

1973年10月6日、スエズ・シリア両戦線で、エジプト軍とシリア軍がほぼ同時に、イスラエルに攻撃を開始、1967年6月の第三次中東戦争以来の大規模な戦闘が勃発した。

この日は、ユダヤ教徒にとって最も重要なヨム・キプール(浄めの儀式の日)にあたり、イスラエルは国をあげての休日だった。

このため、イスラエル側は虚をつかれる形となった。

しかし、翌7日、イスラエルは予備役を大量動員して巻き返しを図る。

9日にはダマスカス、レバノンを爆撃、シリア戦線では制空権を握り、ゴラン高原の戦車戦でもシリア軍を圧倒して、攻勢に転じる。

エジプト・シリアを支持して8ヵ国が参戦するが、アメリカの武器供与もあって戦局はイスラエル有利のまま進展。

16日には、アラブ側が停戦を申し入れるが、イスラエルは拒否する。

これに対し、アラブ側は17日西側諸国に対する石油戦略を発表、石油危機の引き金となった。

10月17日、石油輸出国機構(OPEC)加盟のペルシア湾岸6ヵ国が、原油の公示価格を1バレル(約159リットル)あたり3ドル65セント(半月前までは3ドル1セント)に引き上げると発表した。

また、同じくこの日クウェートで開かれたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)10ヵ国の閣僚会議では、10月の石油生産を5%削減すると発表した。

これにともない、サウジアラビアの国営石油会社ペトロミンは、24日、日本に対して原油価格を70%引き上げると通告。

同日、国際石油資本(メジャー)のガルフ、フランス石油も、23日のエクソン、シェルに続いて積み出し価格の30%値上げを通告。

25日にはメジャー5社とペトロミン、ユニオンオイルなどが10%の供給削減を一斉に通知、第一次石油危機に突入する。

石油ショックにより、1974年、75年と世界的に不況になった。

インフレーションのさなかに不況が同時発生することを、「スタグフレーション」という。

普通、インフレーションと不況とは、トレード・オフの関係にあるといわれる。

物価上昇率の高い年には経済の繁栄があり、失業率は低く、失業率の高い年には物価上昇率は低く、物価上昇率と失業率との間には互いに相反する方向への動き、すなわち「トレード・オフ」の関係があることが明らかにされている。

では、世界的規模において激しいインフレーションの中で不況が同時発生しているこの現実は、どのように説明されるのであろうか。

それは、実質個人消費支出の急速な減退による。

あまりにも激しい消費者物価の上昇によって、個人は強制的に消費削減を余儀なくされたのである。

低所得者ほど生活必需品の大幅価格上昇の影響を強く受け、その購入のために貯蓄を引き出してもなお手一杯であった。

かくて激しいインフレーションは、年金生活者、母子家庭、福祉施設、低賃金所得者等いわゆる「インフレ弱者」を容赦なく痛めつけ、無慈悲に彼らの実質消費を奪い取っていった。

インフレによって収奪され、不況のため失業率は高くなり労働者の立場は弱くなる、社会的弱者にとっては正にダブル・パンチであった。

第一次石油ショック直後(1973−74年)には、インフレーションと経常収支危機に対応して先進工業諸国はいずれも財政と金融を引き締めたが、75年頃から不況の深刻化に対応して金融を緩和し、公定歩合を引き下げ、西ドイツ、アメリカなどを中心に減税、公共投資計画等の財政刺激政策を採用し、そのために大幅な赤字財政をも辞さなかった。

1975年以降、主要先進工業国の公定歩合がかなりの程度引き下げられ、財政赤字比率が急上昇した。

しかし、これらの財政刺激政策は有効ではなかった。

インフレを加速し、経常収支の赤字を拡大するばかりで、失業率の減少にはあまり効果を発揮しなかった。

これらの財政刺激政策の帰結は、通貨危機の発生であった。

赤字国債発行による財政政策は、輸入超過、国際収支の逆調を伴う。

国内有効需要の増大が輸入を促進し、国内物価の上昇が輸出を抑制するからである。

1976年6月、英ポンド救済のため日・米など9ヵ国がイングランド銀行に52億ドルを緊急融資することで合意した。

1978年11月、ドル防衛の要請(1ドル=180円レートの堅持)。

ドル防衛の要請に先立って当時のカーター大統領は、78年10月24日付けでインフレ対策の強化と内需抑制策を発表している。

この頃から次第に、トリレンマ(失業、経常収支赤字、インフレーションの同時発生という三重苦)のもとでは、国家による財政刺激政策は重い負担の割りには効果が薄いという認識が定着していく。

やがて主要先進工業国の政権担当者自身の口から、国家財政の破綻が公言されるようになる。

レーガンは、1981年大統領就任直後(2月5日午後9時)のテレビ放送の中で、「こんなことを私の口からいいたくないが、アメリカの経済状態は(1930年代の)大恐慌以来、最悪である。われわれはこの真実に直面し、事態を認めねばならない」と危機感を強調した。

その上でレーガン大統領は、当時アメリカが直面していた経済的困難を4つ指摘した。

・インフレーション。アメリカの物価上昇率は、1960年代の初めまで1−1.5%程度であった。しかしこの2年間(79−80年)のそれは年平均13%に達している。

・失業。アメリカの失業者数は、1980年当時、780万人から800万人に及び、一列に並べると東海岸からカリフォルニアに達する長さである。

・生産性低下。アメリカの労働生産性は、1948−68年の20年間、年率3.2%で上昇を続けたが、68ー73年の5年間の上昇率は、年率1.9%に鈍化し、73ー78年の5年間の上昇率は、年率0.7%まで低下し、それ以降の伸び率はマイナスに転じ、1980年現在のそれはマイナス0.6%を示すに至っている。単に労働生産性の量的側面のみならず、労働意欲の低下、労働の質の低下も無視することはできない。

・財政欠陥。アメリカの財政赤字は1980年、800億ドルに達し、それは1957年の年間歳出額全体よりも巨額である。

1981年2月28日発表の「アメリカの再出発ー経済回復のためのプログラム」の中で、レーガンはいわゆる「レーガノミックス」を展開した。

レーガンは何よりもアメリカ経済低迷の最大原因を政府部門の肥大化にあるとした。

そして1984年までに財政の均衡を達成するために、次の4つの政策を提言した。

・連邦支出伸び率の抑制

・大幅減税

・連邦政府諸規制の緩和

・適切な金融政策(マネー・サプライの増加率を実質成長率以下に抑制する金融政策、マネタリズムの厳守)。

このような酷い不況は、アメリカのみならず、西ドイツ、イギリス、フランス、イタリアそして日本も例外ではなかった。

1973−82年の約10年間に、主要先進国においては、二回の景気下降局面と、一度の景気回復局面が発見できる。

第一次石油ショック後の下降局面と第二次石油ショック後の下降局面の間に景気回復局面が見られ、1978−79年頃ピークを描き出しているが、好況感が浸透するのに必要なだけ十分な期間継続しないまま、突如イラン革命後の第二次石油ショックによって切断され、束の間の回復に止まったのだ。

では不況対策の「レーガノミックス」の帰結はどうだったのだろうか。

強力なインフレ対策と財政赤字を主因とする資金不足(クラウディング・アウト)は高金利をもたらし、外国資金のアメリカへの流入を誘引したが、それは外貨によるドル需要をもたらし、ドル高を必然化した。

ドル高はアメリカの国際競争力を著しく低下させることを意味し、1982年から経常収支の大幅赤字をもたらした。

それがまた外国資金の流入、したがって対外債務の増大となり、1983年より対外純資産を激減させ、1985年、ついに対外純債務国に移行せざるを得なくなったのである。

アメリカの財政赤字は外国、すなわち日本からの資金流入によって賄われた。

アメリカの対外資産・負債残高は、1915年にはじめて資産が負債を超過してから、一貫して純資産残高を続け、1982年には、1470億ドルの最高額を記録している。

しかし、それ以降、経常収支の大幅赤字基調のため、急速に減少し、資産超過額は、1984年末ついにわずか282億ドルに過ぎなくなり、1985年の1177億ドルと史上最高を記録する経常収支の赤字によって、71年間持続した資産超過の状態は崩され、一挙に約1000億ドルもの純債務国に転落したのだ。

一方、日本の1984年の対外純資産残高は743億ドルであり、282億ドルのアメリカを抜いている。

日本がイギリスを抜き、世界最大の純債権国になったのは1987年末のことである。

日本が世界一の金持ち国になった!「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」だ。

第二次石油ショック後、産業構造の転換が進んだ日本は輸入資源の量が伸びなくなって、輸出だけが伸びるという形になった。

そのため1983年からは猛烈に貿易黒字が増えだし、1985年秋からの円高問題につながった。

1983年以降の日本の輸出額の増大は、主としてアメリカ向けであったからである。

1985年1月21日(月)、レーガンは二期目の大統領就任の式典を挙行した後、重要な人事を敢行した。

ドナルド・リーガンを財務長官から大統領首席補佐官のポストに移し、財務長官の後釜には、その時まで大統領首席補佐官であったジェームズ・ベーカーが就任した。

ドナルド・リーガン前財務長官は、一貫してドル高、高金利をアメリカ経済の強さを示すバロメーターと理解していた。

彼はメリル・リンチ社の会長ポストに就いていた1971年から85年までの15年間に、メリル・リンチ社の収益を350%近く高めるのに貢献したといわれている。

財務長官としての彼の判断では、株高が企業の好成績を示すように、ドル高は世界経済におけるドルへの信認の強さを示し、また高金利は、アメリカにおける予想投資収益率の高さの反映であって、いずれも、強いアメリカ経済のシンボルにほかならなかった。

ところが新財務長官に就任したジェームズ・ベーカー(ベーカー・ロヴェット・オフィス創立者の孫)は、円高・ドル安誘導を考えていた。

1985年9月22日(日)、ニューヨークのプラザホテル2階「ホワイト・アンド・ゴールドの間」において、米、英、仏、西ドイツそして日本の5ヵ国の蔵相と中央銀行総裁合計10名が緊急に集まり、G5が開催された。

これがその後2年余り続いた円高・ドル安誘導のための協調介入の開幕となった。

G5の合意(プラザ合意)に基づき、欧米諸国は減税を中心とする税制改革、金融の弾力的運用などによって内需の拡大努力を実施することになった。

一方日本は、住宅問題に焦点を合わせ、宅地開発の規制の緩和、地方自治体による公共投資、金利引き下げなどの手段で、内需拡大を実施する意向を示した。

先進主要国が為替市場への積極的な協調介入に踏み切るのは、1978年11月のアメリカドル防衛以来7年ぶりのことだった。

G5の合意を受け、翌23日の各国の外国為替市場はどこもドル売り一色となり、1日で4−5%と世界金融史上空前のドル急落を記録した。

東京外国為替市場の円相場は、1985年9月20日には1ドル=242円00銭であり、1987年10月19日ブラック・マンデーには、1ドル=141円35銭であった。

2年1ヵ月間で1ドル当たり100円65銭の円高・ドル安となり、変化率は71.2%にも達した。

恐るべきスピードで円高が進んだことになる。

そして1987年12月には1ドル=130円に突入し、遂に1988年1月4日には1ドル=121円65銭まで切り上がった。

G5の直後、主要先進国の中央銀行はドル売り・円買いの協調介入に率先して踏み出した。

ニューヨーク連銀の発表によると、G5以後10月末までのドル売り介入額は合計31億9900万ドルであった。

この期間、日銀のドル売り・円買い介入の規模は30億ドル以上。

G5のうち、その他(西ドイツ、イギリス、フランス)の介入額合計30億ドル、G10加盟国(そのうちG5加盟国を除く)の介入額はほぼ20億ドル以上。

したがって、この時期合計112億ドル以上の規模のドル売り協調介入が実施されたことになる。

ところが、円相場が1ドル=180円を突破し、さらに175円を越えて円高が進んだ1986年3月18日、日銀は、今までの市場介入(ドル売り・円買い介入)を突然逆転させて、ニューヨーク市場でドル買い・円売り介入(逆介入)に踏み切った。

東京市場ではじめて逆介入(ドル買い・円売り介入)を実施したのは4月1日のことであった。

そして、このような日銀によるドル買い・円売り介入は、1988年1月頃まで断続的に実施された。

ドル買い・円売り介入は、国内のマネーサプライの増加となった。

これが低い金利と相まって、株式投機や土地投機を誘発した。

日銀が1987年3月31日発表した「1986年資金需給実績」(速報)によると、財政資金のなかで、外国為替資金特別会計の支払い超過分が4兆3510億円に達したが、日銀の外為市場におけるドル買い介入資金がほとんどだった。

この4兆3510億円の円資金の流出は、マネーサプライを約1.4%分上昇させた勘定になる。

このような激しいマネーサプライは、もっぱら土地投機・株式投機(その一部は海外証券投資となりアメリカ市場向け株式・債券購入)に向けられた。

1987年1月21日国税庁から発表された最高路線価は、47都道府県庁所在地の平均で対前年19.6%の上昇を示した。

それは前年(1986年)の引き上げ率(9.1%)の2倍に達し、『日本列島改造論』ブームによって地価が高騰した1972−73年以来の高い伸びを示した。

“狂乱地価”と呼ばれた地価上昇率、1971年(28%)、72年(24%)、73年(20%)に迫る暴騰となった。

当時の地価上昇は全国的であったが、1986年以降のそれは、大都市の繁華街で高騰し(例えば東京・銀座では年間79.2%の上昇)、他方、中小都市においては比較的安定していて、極端な二極分化現象が現れた。

これは、大企業の投機熱や、地上げ屋の横行によるものであろう。

最高路線価の対前年上昇率はその後も顕著で、1988年23.7%、89年28.0%、そして90年28.7%と“狂乱地価”を超えている。

株も暴騰した。

1989年12月29日の大納会で、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録した。

そしてバブルが弾けた。

プラザ合意以降の日銀による大量ドル買い介入と、公定歩合の度重なる引下げなど積極的な金融緩和措置は、バブル形成にあたって資金面の条件を用意した。

これはニクソン・ショック直後の政策ミスと軌を一にする重大な失敗である。

当時の日銀総裁は第25代日銀総裁(昭和59年12月17日から平成元年12月16日)澄田智である。

澄田は、金融制度調査会会長の就任にあたって記者会見を行い、日銀総裁時代の金融緩和が金融不祥事の一因になった点について、『円高不況、黒字の急拡大などから金融緩和はやむをえないことだったが、金融機関に節度ある融資を強く要請しなかったことについて反省している』と率直に語っている。

公定歩合は1985年末当時の5.0%から、87年2月の2.5%へ向かって、段階的に引き下げられている。

この澄田一族はなかなか面白い経歴を持っている。

日銀総裁・澄田智はベルギー、フランスなどの大使館で一等書記官を務め、大蔵省でNo.1の事務次官まで昇進したあと、輸出入銀行の総裁になり、84年12月から日銀の総裁に就任している。

澄田智の父親は、らい四郎といい、群馬県の陸軍中将だった。

日本が中国大陸を侵略した時、北支那方面軍の第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時まで支配した重罪戦争犯罪人であった。

らい四郎が、中国現地で最も頻繁に交流したのが、河本大作であった。

河本は満鉄が設立された時からその理事に就任し、大陸にある石炭、金属などの鉱山利権を動かした男である。

張作霖爆殺事件の首謀者でもある。

澄田らい四郎は、インドシナに赴任する前には、フランスの駐在武官を務めていた。

そこで生まれた澄田機関が、今日の日銀総裁・澄田智(父親と同じくフランス大使館での初期キャリアを持つ)に引き継がれ、霞が関の天下り人事を支配してきた。

澄田らい四郎は、インドシナ半島にいた時代から、現地の日本人将校に「あれは日本の将校ではなく、フランスの将校だ」とささやかれたばかりでなく、実際にもフランスを中心に活動する不思議な存在であったという。

らい四郎の息子、澄田智は1990年に日銀総裁からラザール・フレールの顧問になった。

バブル崩壊に話を戻す。

日本の株式市場は、1989年12月29日、東証一部平均株価終値が史上最高の3万8915円87銭を記録して以来、1年間に大きくみて2回、大幅の株式低落を経験している。

第一回の谷は、1990年4月2日の2万8002円7銭で、89年末のピークから28.05%の低落であり、第二回の谷は、1990年10月1日の2万221円86銭で、7月17日のピーク(3万3172円28銭)より39.1%の低下である。

この日、株価は2万円の大台を割り込み、1万9990円51銭と対前年末49%もの大暴落を記録し、これによって東京株式市場時価総額は実に270兆円以上も消滅した計算になる。

この株価暴落の引き金は、日本の証券業者による「大量売り」であるより、裁定取引に習熟していた外資系証券業者による大量の「現物売り」による裁定取引の解消であった。

「1990年9月中間決算」によると、日本の証券会社は、四大証券をはじめ激しい減益を示しているのに、ひとりソロモン・ブラザーズ・アジアは、対前期比39%増にあたる50億1000万円の経常利益を上げているのだ。

株価暴落は、外資系証券業者によって仕組まれた謀略だったのである。

そして外資系証券業者によるバブル崩壊を側面支援したのが、日銀・大蔵当局であった。

「この平成バブル景気が公定歩合2.5%によって作られたことは明らかであるが、日銀・大蔵当局は次にバブル崩壊を企む。

世の中が好景気に踊っている頃、早くもその仕掛けは発動されている。1989年5月31日、日銀は公定歩合をいきなり0.75%引き上げ『急速冷凍』に入る。その後も公定歩合は段階的に引き上げられ、同年10月11日には3.75%に、12月25日には4.25%、そして明けて90年3月20日に5.25%、8月30日にはついに6%へと引き上げられ、バブル崩壊の仕掛けは完成した。

これに海外からの支援が加わる。88年6月にはBIS規制合意、90年8月は湾岸戦争勃発と日本経済崩壊のシナリオは見事なまでに内外の『関係者』たちによって『国際協調』され実行された」(ヤコブ・モルガン著『続最後の強敵日本を撃て』第一企画出版)

このように公定歩合が引き上げられたのは、石油ショック後1980年3月以来実に9年2ヵ月ぶりのことであった。

10月11日の引き上げ後わずか2ヵ月半の12月25日に0.5%切り上げたのは、三重野日銀総裁に代わって間もなくのことであった。

BIS(国際決済銀行)規制というのは、1988年7月11日、日本を含む加盟12ヵ国の中央銀行総裁会議において、国際業務を行う銀行を対象に、それぞれの自己資本比率を「1991年3月末以降は、7.25%、93年3月までに8%以上とする」と決定した国際統一基準のことである。

BISの自己資本比率8%規制というのは、たとえば、ある銀行が新しく100億円の貸出増を計画しようとすれば、8億円の自己資本の増加を準備する必要がある、ということを意味している。

バブル崩壊後、自己資本の増大強化が困難になったので、BIS規制の要請に応えて自己資本比率を維持するためには、都市銀行は民間向け貸付金の圧縮を余儀なくされるに至った。

公定歩合を引き下げても、マネーサプライが伸びないのはこのためなのだ。

公定歩合の引下げは銀行にとって調達コストの低下をもたらすが、銀行が不良債権を抱えている場合には、それを償却するため貸出金利を低下させず、銀行は貸出金利と調達金利のギャップを拡大させ、業務純益の拡大を図る傾向がある。

その結果、マネーサプライは低下する。

一方の企業はエクイティ・ファイナンスのつけで設備投資を抑制せざるを得ず、個人消費はこれまた減退した。

これでは、いくら金融を緩和しても景気が回復するわけがない。

そして日本企業の経営危機につけこんで行われたのが、外資による日本企業乗っ取りであった。

バブルの発生もその崩壊もすべて、国際金融財閥によって予め仕組まれた謀略だったのである。

この謀略に国内で手を貸したのが、日銀・大蔵当局であったのだ。

最後に石油ショック以後の日本経済の問題点を三つ指摘して、終わりとしたい。

第一は為替問題である。

石油ショック後、世界経済を動かす力は、財とサービスの貿易ではなく、資本の移動に変わった。

為替レートを動かす力が、モノの貿易から貨幣の流れに変わったのである。

ニューヨーク連銀(連邦準備銀行)からの呼びかけで、1986年3月現在、はじめて日・米・英の中央銀行が同時に調査した外国為替市場の一日当たりの取引高は、東京480億ドル、ニューヨーク585億ドル、ロンドン900億ドル、三市場合計で1965億ドルであって、年間49兆ドル強、モノとサービスの世界貿易金額の16倍以上にものぼっている。

ロンドンのユーロダラー(アメリカ国外に保有されているアメリカ・ドル)市場の取扱い金額は、営業日一日当たり3000億ドルを超え、年間では75兆ドルに達している。

優に世界貿易額の25倍に及ぶ巨額である。

このことは、ジョージ・ソロスのような通貨トレーダーが、どんな国の通貨でも意のままに上下させることが出来ることを意味している。

例えば、1997年夏に始まったアジア通貨暴落は、通貨マフィアのアジア経済破壊のために引き起こされた人災であった。

彼らはマレーシアの通貨リンギットを60%下落させ、同時にインドネシアのルピアを一時的に600%も下落させた。そしてIMFは資金提供の条件として、これらの国々に金融引き締め政策を行うよう迫ったのである。

この世界支配層の脅迫にアジアで、いな世界で唯一逆らったのが、マレーシアのマハティール首相であった。

マハティールは、厳しい通貨管理、マレーシア株式取引の国内化、固定為替レートを宣言することによって、グローバリゼーションの“ゲームのルール”をひっくり返したのだ。

日本経済の第二の問題点は、産業の空洞化である。

1985年プラザ合意以降の円高によって、日本企業の海外進出は拍車をかけられた。

鉄鋼、自動車、半導体、民生用電子機器などの輸出依存型基幹産業が不振に見舞われ、その対策の一環として海外での現地生産が強化された。

日本の製品輸入比率(輸入に占める製品輸入の割合)も年々増加している。

イギリスやアメリカの轍を踏んで、将来は日本もまた金を動かすだけの輸入超過国に変貌してしまうことだろう。

第三の問題点は、財政赤字である。

石油ショック以降、特に昭和50(1975)年以降の不況期には、赤字財政政策が積極的に打ち出され、巨額の赤字国債が年々継続的に発行されるようになった。

50年度には5.3兆円、そしてそれ以降年々平均2兆円程度を上積みして、昭和55(1980)年度には遂に史上最高の発行高14.2兆円を示すに至った。

また、国債依存度も、昭和49年度までは11.3%程度に止まっていたが、昭和50年になると一挙に25.3%に上昇し、52年度には過去最高の34.7%にも達した。

バブル景気の最中には赤字国債の発行は中断したが、バブル崩壊後は、景気対策のための歳出増加と不況による税収不足から再び赤字国債が発行されるようになった。

公債残高の累積も増加し、1998年末には270兆円以上となった。日本の人口を1億人として計算すると、これは国民一人当たり270万円の負担になる。

人ごとではない。借金なのである。誰が代わりに払ってくれるものでもない。

日本国民全員が負担しなければならないのだ。

だが、あなたは家族の分も含めて(1家族=4人とする)、1000万以上のお金を国の借金返済のために払いますか?

誰もそんな奇特なことはしないだろう。

では政府は支払い猶予(モラトリアム)を宣言することになるのだろうか。

その答えもNOである。

そんなことをすれば、日本銀行券は紙屑になってしまう。

何故なら、お金の価値というものは幻想によって支えられているからである。

幻想を信用と言い換えてもよい。

一度信用が失われてしまえば、お金の価値は無になる。

不換紙幣を銀行に持っていっても、金とは交換してくれない。

日銀券が紙屑になってしまえば、国家は破綻するであろう。

そんな愚かな政策を政府が採用することは決してありえない。

日本はアジアや南米の開発途上国ではないのである。

それでは残された最後の選択肢は何なのであろうか。

それはインフレである。ハイパー・インフレによって国民から資産を収奪し、政府債務を帳消しにする方法しか残されていないのである。そして歴史を振り返るならば、この超インフレの向かう先は常に戦争であった。

では日本が戦争を回避する道はないのか。

あることはある。

例えば、政府が軍需産業ではない製造業を育成することである。

国策自動車メーカーを設立するというのはどうだろう。

工場を作り失業者を雇い安価な自動車を供給するのである。

値段は1台50万円以下である。

性能、デザインは市販の自動車に及ばないので、他の自動車メーカーと競合することにはならない。

他産業への波及効果も大きいだろう。

あるいは、安価な公団住宅を多量に建設するのはどうだろう。

政府資金を投入し、住宅建設はゼネコンに安く請け負わせ、作業員として失業者を雇用する。

販売価格は500万円以下にする。

あるいは、農地開発はどうであろうか。

政府が不要の農地を買い上げ、米ではなく小麦や大豆等、輸入作物を自前で生産するようにするのである。

もっともこれはアメリカの反発を招くことになるであろう。

あるいは石油公団を設立し、油田の開発から精製そして配給まで自力で行うようにしたらどうだろう。

もっともこんなことをした通産大臣は、メジャーにたちどころに抹殺されてしまうに違いない。

あるいは、先端技術開発のために研究開発資金を投入してはどうだろうか。

ロケットやジェット機、情報産業を育成するのである。これまたアメリカが許すわけはない。

以上、徒然なるままにインフレ対策を列挙してみたが、日本政府がこのような政策を採用しないことは明らかである。

何故なら、以上のような貧民救済策では財閥が儲からないからである。

財閥にとって戦争はうまみのある商売である。

戦争になっても特権階級は国家権力によって生存の道が保証されているから困ることはない。

苦しむのは庶民だけなのである。

その庶民も、敢えてお上に逆らって戦争に反対することはないだろう。

これまた我が身可愛さで、己の生活や立場を危険に晒してまで戦争に反対する者はいないだろうからだ。

従って、日本は一度ならず再三踏んだ過ちをまた繰り返すことになるのだろう。

それが5年先になるのか10年先になるのか20年先になるのか、筆者には分からない。

しかし一つ確かなのは、今現在の不況はやがて収束し、日本はインフレ下の加熱経済に向かうであろうということだ。

景気が回復するのは、金融再編成が完了し、金融寡頭支配が確立してからになろう。

金融力の集中なしには、国家的事業をファイナンスすることが出来ないからである。

その行き着く先は新たなバブルの発生なのか、それとも戦争なのか。

PKO活動やガイドライン法、盗聴法、国旗・国歌法、オウム二法の成立等を考えると、政府はすでに戦争準備に取り掛かっているとしか思えない。

残念ながら結論としては、新たな戦争の発生は避けられそうもないのである。

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■d-10-5 三菱フリーメーソン説⑤

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