■d-10-4 三菱フリーメーソン説④ |
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2006-09-22
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.4』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め計画されていたものだった。
1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュー・メロン(1855〜1937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長官)と会談した。
1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。
その翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。
この時すでに株の暴落は準備されていたのである。
しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。
J・P・モルガンとクーン・レーブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持っていた。
この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。
彼らは来るべき暴落の通知を受け、ジェネラル・モーターズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除いた他の株は全て売却した。
これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち直した。
以前の恐慌の時と同様に、事情通のウォール街と外国の相場師たちは、確実優良・一流証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。
1929年の大恐慌では、マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。
1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。
トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりする無比の機会であった。
1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断ったために引き起こされた。
1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億6827万6854ドルだった。
32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルとなった。
価値総額にして740億ドル、率にして29年ピークの実に82%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
名目GNPは1929年の1031億ドルから32年には580億ドルに(44%)下落した。
同じ期間に工業生産は46%、国民所得は51%、企業売上は50%、輸出は36%それぞれ下落した。
30年に失業者は430万人に達し、1年後にはさらに倍加して800万人に及んだ。
この数字は6人に1人が失業していることを示す。
32、33年には遂に1200万人を越え、失業率は約25%に達した。
職を維持できた者も、賃金カットを甘受しなければならなかった。
製造工業部門では、29年に週当たり賃金25ドルであったのが、32年には17ドルまで下落している。
30年にセールスマンの賃金はほとんど半減した。
しかも、消費者物価指数は20%程度しか下がっていない。
そのため、大衆の購買力は低下し、不景気にいっそう拍車をかけた。
1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。
自動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカードを立てて職探しにやっきになっていた。
レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も珍しくなかった。
メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはすりきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残りを抱えていた。子供たちは段ボール底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、マサチューセッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経済システムが狂っているからに他ならなかった。
1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが支払いを停止した。
金融恐慌はヨーロッパ全土に広がり、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、そしてドイツの銀行が取り付けに見舞われた。
6月にはドイツのハインリッヒ・ブリューニング首相が、緊縮的政策を受け入れるよう国民に説得する目的で、ドイツは賠償支払い能力の限界に来たと言明した。
資金は争ってドイツから逃避し始めた。
ドイツの銀行は軒並み取り付けに見舞われ、ライヒスバンクは4日間で4億ライヒスマルクの金を失った。
6月20日にはフーヴァーが、他の重要な債権国が同調するならば、アメリカは32会計年度に期限の来るすべての国際債務の支払いを1年間猶予するというモラトリアムを提案した。
フーヴァー・モラトリアムには最終的には各国の同意が成立したが、それはようやく7月6日になってからであった。
その間に、債権者たちは先を争って流動性を確保しようとした。
ドイツではすべての銀行が短期間ながら閉鎖され、閉鎖が解かれた後も外国資金は凍結された。
ヨーロッパ大陸の金融恐慌は、イギリスに波及した。
ヨーロッパの小国の商業銀行が、ドイツの外国資金凍結によって失った金準備をポンドを売って回復しようとした。
イギリスからの資金引き揚げの速度はますます速まった。
9月21日、イギリスは金の支払いを停止して金本位制を離脱し、ポンドを切り下げた。
同時に今度はアメリカから金が大量に流出し始めた。
ドイツやイギリスで損失を蒙った各国の銀行が、金準備を確保するため、また、損失を埋め合わせるため、アメリカの銀行預金を解約して金に替えたのである。
連邦準備はこの金所有権の国外流出に古典的手段で対応した。
連邦準備銀行は公定歩合を2週間に2%ポイント引き上げた。
大恐慌の中での金融引き締めは、狂気の沙汰だった。
では、ドイツの戦時債務に対するこのフーヴァー・モラトリアムの真の狙いはいったい何だったのだろうか。
フーヴァー・モラトリアムの背後には、国際的銀行家たちがいた。
ドイツはスポンジのようにアメリカの資金を待ち望んでいた。
この計画はフーヴァーが大統領になる前から開始されていた。
フーヴァーの大統領選出は、クーン・レーブ商会の重役であるワーバーグ兄弟の影響によるものであり、彼らが選挙費用を賄った。
その見返りとして、フーヴァーはドイツの債務繰り延べ(モラトリアム)を約束したのだ。
フーヴァー・モラトリアムはドイツを援助する意図で行われたのではなかった。
ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得るために必要であった。
1931年に国際的銀行家たちは第二次世界大戦を期待しており、侵略者(ヒトラー)なしの戦争はあり得なかったからだ。
フーヴァーはまた、ロスチャイルド家の秘密代理人として、世界中のいろいろな場所で多くの鉱山開発を行い、ロスチャイルドの主要企業の一つであるスペインとボリビアのリオ・チント鉱山の管理者として報酬を与えられていた。
フーヴァーとエミール・フランク(ベルギーの大銀行ソシエテ・ジェネラルの重役)はベルギー救済委員会を組織して、第一次世界大戦中のドイツに食料を供給した。
大恐慌に対するフーヴァーの対策は以下の通りであった。
「ウォール街崩落のあと、彼は、実業界・労働界の指導者をホワイト=ハウスにまねき、協力を依頼している。実業界の指導者は、フーヴァーの要請をいれて、賃金水準を維持し、生産水準を引き下げないことに同意した。労働界の指導者も、ストライキをやらないと述べた。農業界にたいしても、農産物価格を適当な水準に維持するため、生産制限を自発的におこなってほしいと訴えた。しかし、これらの要請がいつまでも支持されるはずもなかった。すでにみたように、30年から生産は落ち込み、失業者が増大した。31年8月、USスティールが賃金カットに乗りだしてから、労使間の協調にも亀裂が生じ、労働争議が激発した。農業政策もさして効果はなかった。自発的な生産制限は、全国的規模で実施されたときにのみ効果を生む。しかし、個々の農民は、従来の所得水準を維持するには、むしろ生産の増加をはからざるをえなかったのである。
1931年12月、フーヴァー大統領は、起死回生の法案を議会に提出した。復興金融公社法案である。この法案は、政府が5億ドルの資本を投下して、復興金融公社を設立し、銀行・保険会社・鉄道・農業不動産会社などに救済貸付をおこなうことを目的としていた。この法案提出は、政府のビジネスへの介入に消極的であったフーヴァーにしては、画期的な措置であったといえる。しかし、結局は、大銀行や大産業を救済するのに役立っただけで終わった。32年7月、復興金融公社の貸出状況を議会に報告する義務を負わせる法律が通ったが、それにもとづいて調査したところ、総額1億2600万ドルの貸出のうち、半額以上が、三大銀行への貸出しであることが判明したのである」(中村政則著『昭和の恐慌』小学館)
経済状態の悪化を反映して、連邦政府の歳入は29年から32年にかけて半減したが、歳出は5割の増加となった。
その結果、連邦財政赤字は32年には27億ドルに達した。
これはその年の歳入総額より40%以上も大きな数字であり、政府の負債残高は年間歳入の10倍にまで膨らんだ。
フーヴァーは均衡予算への復帰を訴え、増税政策を採用した。
フーヴァーは退役軍人のボーナス、公共事業、福祉事業、失業保険などを連邦政府の国債発行によって賄うことは、すべて国の信用に傷がつくとして拒否し、大不況からの回復を財政面から支援する道を閉ざしてしまった。
いまや大統領フーヴァーは、繁栄の象徴から貧困の象徴へと転落した。
1932年2月13日、ミシガン州のカムストック知事は全州550の銀行に8日間の「銀行休日」を宣言した。
デトロイトの中心的銀行、フォードの庇護下にあるガーディアン国法商業銀行と第一デトロイト国法銀行が経営危機に陥ったとの判断からであった。
ミシガンの銀行休日の直後、オハイオ全州に取り付け騒ぎが起こった。
2月20日からの1週間で金融恐慌は全国に広がった。
2月と3月で閉鎖された銀行の数は3610行にのぼった。
そして、3月4日、ルーズヴェルトの大統領就任の日、最後まで残っていたニューヨーク州とイリノイ州が銀行休日を宣言したことによって、全米すべての州で銀行が閉鎖された。
21年に3万1076行あったアメリカの銀行は、合併や倒産によって33年までにその半数以上にあたる1万6305行が姿を消した。33年中に払い戻しを受けられなくなった銀行預金残高は36億ドル、その年のGNPの6%を超える大きさだった。
こうして不況のどん底でアメリカ国民が絶望感にうちひしがれている時に登場したのが、ルーズヴェルトのニューディール政策だった。
「ニューディール」という言葉は、「トランプのカードを新しく配り直す」「新規巻き返し」「新しい対策」という意味である。
1932年の大統領選挙でのフーヴァーの対抗馬は、ニューヨーク州知事のフランクリン・D・ルーズヴェルトであった。
大統領選挙の結果は、ルーズヴェルトの圧勝であった。
1933年3月4日の大統領就任式で、ルーズヴェルトはキャピトル・ヒルを埋め尽くした大群衆とラジオの前の国民に語りかけた。
「我々はこの国の置かれた状況に正直に直面することを恐れてはなりません。この偉大な国は、これまで耐えてきたように耐え忍び、やがて復活し、繁栄するでありましょう。
したがって、まず第一に私は、我々が恐れなければならないのは恐れだけである−退却を前進に変えるために必要な努力を萎えさせる名状しがたい、理由のない、条理の立たない恐れだけである、という堅い信念を述べさせていただきます」
「両替商たちは既に我が文明の殿堂の高座から敗走しました。我々は今こそその殿堂に古来の真理を回復することが出来るのです」
「幸福は、単に金銭の所有にあるのではなく、成就の喜び、創造的努力の心のふるえにあるのであります」
「そしてそこには、十分だが健全な通貨の準備がなければならない」
ルーズヴェルトは私利を求めて経済を破滅させた両替商(国際的銀行家)たちを非難し、金銭的利潤よりも崇高な社会的価値があることを説いたが、彼自身がその銀行家たちのエージェントであることは述べなかった。
ルーズヴェルトの政治経歴は奇妙な事情から始まった。
昔の学生時代の関係から、第一次世界大戦中の海軍次官として彼は何人かのグロートン校とハーバード大学の同室の友を含む海軍の同性愛者の大組織の告発を先回りして妨害したことがあった。
このことが、旧家であり著名なニューヨークの一族のベシー・マーベリーが主宰するニューヨークーパリ間を何度も往復してきた裕福な国際的な同性愛者グループに好ましい行為として目にとまった。
ベシー・マーベリーは、後に民主国民党の有力者となった。
彼女はまたルーズヴェルト夫人エレノアを仲間に引き入れた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが車椅子の生活を余儀なくされて落ち込んでいたので、エレノアはベシーに相談した。
ベシーはルーズヴェルトをニューヨークの議員に推すことにした。
彼女の力で目的は達成され、ルーズヴェルトは後に大統領となった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトは、1920年代にアメリカで巨額の外国債券を発行した評判の悪い国際銀行家であった。
この債券は償還不能となり、アメリカ市民は巨額の損失をこうむった。
『ニューヨーク重役名簿』には、ルーズヴェルトが1923年と24年にユナイテッド・ヨーロピアン・インベスターズ社の取締役社長であると記載されていた。
この会社は巨額のドイツマルク債の発行をアメリカで引き受けたが、それらはすべて償還不能となった。
『プアーズ重役名簿』は、彼を1928年のインターナショナル・ジャーマニック・トラスト・カンパニーの重役として記載していた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトはまた、合衆国における外国証券の取引を行うイギリス−アメリカ部隊である連邦国際銀行の顧問でもあった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが合衆国大統領に就任した時、彼はポール・ワーバーグの息子で、国際手形引受銀行副頭取及び他の会社の重役のジェームズ・ポール・ワーバーグを予算局長に任命した。
ルーズヴェルトはW・H・ウッディンを財務長官に任命した。
ウッディンは国内最大の産業資本家の一人であり、アメリカン車両鋳造会社や多数のその他の機関車関連の工事会社、レミントン兵器会社、ザ・キューバ・カンパニー、コンソリデイテッド・キューバ鉄道及びその他の大企業の重役であった。
後に、ウッドロー・ウィルソンをホワイトハウスに送り込む手助けをしたハーレム不動産の経営者の息子であるヘンリー・モーゲンソー・
ジュニアがウッディンの後任者となった。
以上の任命は、ルーズヴェルトが、その非難した当の産業資本家、両替商(銀行家)の側に立つ人物であることをよく示している。
就任式の夜、ルーズヴェルトは財務長官ウィリアム・ウッディンに5日後までに緊急銀行法を起草するよう命じた。
翌5日の日曜日、ルーズヴェルトは側近と協議の上、初の大統領令を発した。
その第一は、3月9日に特別議会を召集すること、第二は、夜12時を回ってから発表されたが、1917年の「対敵通商法」というおぼつかない権威を拠り所に、3月10日まですべての銀行を閉鎖し、金の輸出、銀の輸出、及び外国為替の取引をすべて禁止するというものだった。
これによって、アメリカの銀行制度は完全に機能を停止した。
3月9日に開かれた特別議会で、「緊急銀行法」が発効した。
ルーズヴェルトは直ちに、新しい権限に基づいて、銀行休日を無期限に延長するとの大統領令を発布した。
しかしこの「対敵通商法」は、その合法性に関して疑問がある。
このような法規は平和状態には適用できない。
議会は、軍事措置として以外は、国の憲法や法律を一時停止する権限はなく、その場合でさえ、その権限は軍事的必要事に限られているからだ。
ではこの「緊急銀行法」はどのような結果をもたらしたのであろうか。
「1929年には3万以上の州規模ないしは全国規模の銀行があった。その数は1932年には1万9163に減っていたが、前述の指令の結果、4541の銀行あるいは残存銀行の約3分の1が永久に閉鎖し、43億5679万9000ドルに達する彼らの預金は凍結され、その大部分はなくなった(1936年度通貨会計検査官報告、112ページ参照)。こうして大統領は、法律と合衆国憲法を非道に犯して、閉鎖銀行の数千人の株主およびその銀行の数百人の預金者の財産を仮借なきまでに消滅させ、後日その著書『われわれの道』のなかでその成功を自慢している。
この指令の効果は、デフレをさらに深め、事態をますます悪くしたことである。それは幾千人の預金者の生涯をかけた預金を凍結し、彼らを安楽な身分から窮迫状態へと一転させた」(ジョージ・アームストロング著『ロスチャイルド 世界金権王朝』徳間書店)
この銀行閉鎖から救われたのは、連邦準備銀行が安全を保証した銀行だけであった。
3月12日の日曜日の夜10時、人々はラジオから流れてきたCBSアナウンサーの声に耳をそばだてた。
「大統領がお宅にお邪魔して、暖炉のそばに腰を下ろし、少し炉辺のおしゃべりをされたいそうです」。
かの有名なルーズヴェルトの「炉辺談話」が始まった。
「明日月曜日から、連邦準備銀行のある12の都市の銀行を皮切りに、既に財務省が調べて大丈夫だと分かっている銀行を開けます。それから火曜日には、ちゃんとした手形交換所のある町の健全だと分かった銀行が、すべての業務を再開します。それから水曜日には・・。いいですか、もしあなたの銀行が最初の日に開かなくても、もうそこは開かないのだと決して思わないで下さい。明日開く銀行も、それから後で開く銀行も、全く同じなのです。お金はマットレスの下に置いておくよりも銀行に預けた方が安全だと私が保証しますよ。・・」
この「炉辺談話」は大成功だった。
翌日再開された銀行はどこも取り付けには見舞われなかった。
それどころか、ニューヨーク連邦準備銀行では、加盟銀行に払い出した金額が1800万ドルだったのに対して、その日の終わりまでに帰ってきた現金は2700万ドルに上がった。
他の地域の連邦準備銀行でも同じことが起こった。人々はタンス預金を銀行に預けにきたのである。
しかし、再開されず閉鎖されたままの銀行もあったことは、先に述べた通りである。
人々の預金が安全性を保証された特定の大銀行に集中したであろうことは、想像に難くない。
ルーズヴェルトは議会に「緊縮財政法案」を提出した。
ルーズヴェルトはフーヴァー時代に膨らんだ連邦財政赤字の建て直しのために、連邦支出を大幅に削減する権限を要求した。
ルーズヴェルトは、議員、大統領を含む全ての政府職員の給与を15%まで削減し、軍人恩給を削減し、いくつかのベテラン(退役軍人)の特典を廃止し、政府の科学研究と統計サービスへの支出を削減するつもりだと説明した。
軍人恩給の削減に対してはベテランたちから直ちに強硬な反対の声が上がった。
彼らはフーヴァーの拒否権を覆してそれを獲得したのだった。
議会は緊縮財政法とヴォルステッド法(ビール・ワイン解禁)の二つを承認した。
ルーズヴェルトの緊縮財政・デフレ政策は明らかに失敗だった。
不況に対する療法は、連邦準備制度のデフレ政策ではなく、通貨と信用を膨張させて、公正かつ穏当なインフレーションを招来することにあった。
ルーズヴェルトはその療法を承知していたので、就任演説でこの方策を取ると約束したのだ。
ルーズヴェルトは口先とは裏腹に、景気を回復させるつもりなど始めからなかったのだ。
1933年6月16日、「グラス・スティーガル法」が発効した。
グラス・スティーガル法は証券と銀行の分離、連邦準備制度の強化、預金者保護のための「連邦預金保険公社(FDIC)」の設立、要求払い預金への利子の禁止などを主な内容としていた。
33年銀行法(グラス・スティーガル法)の中で最も大きな論議を呼んだのは、FDICについてであった。
「政府による保険は機能したためしがない」
「結局健全で業績のよい銀行が不健全で危険な銀行を助けることになる」
「自由かつ独立独歩のアメリカの銀行制度への根本的挑戦だ」
一時は成立が危ぶまれたが、結局FDICは1935年に設立された。
これは、小銀行に対する大銀行の力を増大させ、大銀行が小銀行を調査する一つの口実を与えることになった。
次いで銀行法は1935年に改訂され、連邦準備の政策決定権限はさらに強化された。
金融政策の決定権は従来の連邦準備委員会を改組した「連邦準備制度理事会」に移り、財務長官と通貨管理局長はその委員会からはずされた。
この法律は連邦準備制度理事会の役員の任期を14年もしくは大統領の任期の3.5倍の長さに延長した。
これが意味することは、理事会に敵対するかもしれない大統領は、自分に好意的な多数派を理事会に任命することが出来ないということである。
そのために、大統領がホワイトハウスに着任する前に採用された金融政策は次の大統領の希望に関係なく継続されるようになった。
1935年の銀行法はまた、1933年のグラス・スティーガル法の条項の一部を廃止した。
この条項は、銀行が所有する企業にその銀行が資金を貸し付けることを禁止することだったので、元来の趣旨は良いものであった。
1935年銀行法により、連邦準備銀行は今や産業に直接貸付することを認められ、巨額の貸付を実行するだけの規模を持たない会員銀行と競合することになった。
これは、J・P・モルガンが投資銀行業に戻ることができることを意味した。
1935年銀行法によれば、連邦準備制度理事会の新議長と新メンバーは、大統領によって任命されると規定されている。
そして、ルーズヴェルトはマリナー・エクルズを理事会議長に指名し、全く新しい理事陣を任命した。
エクルズはユタ州の銀行家であり、ファースト・セキュリティーズ・コーポレーションの社長であった。
この会社は、エクルズが1920年から21年までの農業不況の時に安く買った多数の銀行からなる一族の投資信託会社だった。
エクルズはまた、ペット・ミルク・カンパニー、マウンテン・ステイツ・インプリメント・カンパニー及びマルガメイテッド・シュガーのような企業の重役でもあった。
大銀行家としてエクルズはルーズヴェルトを操作していた有力者グループとうまがあった。
当初の連邦準備法は準備制度加盟銀行に対し、連邦準備銀行に下記のような準備金を保有することを要求した。
すなわち、地方銀行及び小都市の銀行は、その預金の7%、準備都市(商業中心地と目される都市で、そこに所在する国立銀行は一定率の準備金を維持するよう規定されている)の銀行は10%、中央準備都市では13%である。
1935年銀行法は、「有害な信用の膨張・収縮を防止するため」、前述の準備金要件を倍加する権限を連邦準備制度理事会に与えた。1936年8月26日に、連邦準備制度理事会はこれらの準備金条件を50%引き上げた。さらに、1937年1月30日、次の決議を採択した。
「1937年3月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の75%増しとする。さらに1937年5月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の100%増しとする」
この通貨の引き揚げ、信用の収縮はデフレを惹起した。
これまでの赤字財政によって1937年初めに「繁栄」が戻ったかに見えた時、ルーズヴェルトは財政支出を大幅に削減し、連邦準備銀行はマネーサプライの増加を引き締めたのだ。
こうして、一旦回復に向かったかに見えたアメリカ経済は、1938年には再び厳しい「リセッション」に見舞われた。
新聞は「ルーズヴェルト不況」という言葉を使い始めた。またまた飢餓線上をさまよう人々が出現した。
ニューディールの期間を通じて連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は2回しかなかった。
ニューディールの財政政策は、連邦財政赤字の規模で見る限りGNPの5%に達することは珍しかった。
ニューディールの財政赤字は小さすぎて、アメリカ経済を旧来の成長軌道上に復帰させる力にはならず、回復の足を引っ張るブレーキにしかなっていなかった。
ニューディールは、総需要政策としては失敗だった。
それでは、この大不況からの脱出はどのようにして可能になったのであろうか。
戦争である。
アメリカが大不況から抜け出して1929年までの長期的成長軌道上に復帰したのは、日本軍の真珠湾への奇襲が起こった1941年になってからであった。
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が始まった。
1941年3月、三期目を始めたばかりのルーズヴェルトに、議会は連合国に軍事物資を供給するための武器貸与法を許した。
必要な資金は国債の発行によって賄われる。
巨大なスケールで軍事生産が開始された。
その年の1月には3.3億ドルに拡大していたアメリカの輸出は、さらに4.6億ドルに増加した。
12月7日(日本時間12月8日)には、日本軍の真珠湾攻撃が起こった。
この卑劣な奇襲によって、アメリカ国内の参戦反対派の声は沈黙させられた。
1942年の連邦軍事支出はGNPの14.4%に急上昇し、連邦財政赤字はGNPの13.5%となった。
43年には連邦財政赤字はGNPの30%に達した。
44年には連邦・地方政府を合わせた全ての政府財政支出の合計は、アメリカ経済全体の58.2%を占めるに至った。
総生産は40年から45年までに59%拡大した。
アメリカは、テクノロジーと資源の許す限りの潜在的生産力を、戦争動員のためにフル稼働させた。
武器貸与プログラムによって、40年から45年までの間に総額500億ドルにのぼるアメリカの軍事物資がイギリスをはじめとする連合国に供与された。
これは1933年から39年までのニューディールの財政支出総額よりも大きかった。
結局のところ、ルーズヴェルトがデフレ政策を転換し、大量国債発行によるインフレ財政を実行したのは、第二次世界大戦によってだったのである。
ルーズヴェルトは戦争が開始されるまで、たらたらと不況を長引かせたのである。
アメリカの失業率は1941年の9.9%から1944年には1.2%へと下がっていった。
大量失業経済は一転して労働力不足経済へと姿を変えたのである。
ニューディール政策といえば、一般的には農業調整法(AAA)、全国産業復興法(NIRA)に基づいて作られた全国復興局(NRA)と公共事業局(PWA)、民間国土保全部隊(CCC)、テネシー峡谷開発公社(TVA)、公務管理局(CWA)が有名である。
しかしTVAなど、
「既に電力は供給過剰気味だ」
「新たな電力を一体どこに売ろうというのか」
「この法律はアメリカ社会にロシアのアイデアを接ぎ木しようとするものだ」
などの強力な反対の声が保守派の議員の間から上がっている。
今から考えると、この時既にルーズヴェルトは来るべき戦争時の電力需要を見越していたのだと思われる。
結論として、ニューディール政策は首尾一貫性を欠き、総需要政策としては失敗であった。
しかし、1933年の証券法、グラス・スティーガル法、34年の証券取引法、1935年銀行法は、連邦準備銀行による政策コントロールを確立し、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を定め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなったのである。
先に、日本の外債を発行した銀行団は、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行であったと書いた。
この内、ベアリング・ブラザーズ商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクについては、既に説明した。
残る、パース銀行、香港上海銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会について、次に説明しなければならないだろう。
ロスチャイルド家については既に様々な研究書が出ているので、今更筆者がくどくどと説明するまでもないだろう。
ざっと触れておく程度にしよう。
一族の創始者であるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、コイン売買業者としてフランクフルトに小さな店を開いた。
それ以前はバウアーとして知られていたが、赤い楯の上に一羽の鷲を描いた看板を掲げることによって商売を宣伝した。
この看板はフランクフルト市の紋章を応用したものであり、鷲の爪から彼の5人の息子を意味する5本の金の矢が広がり出るようにあしらわれていた。
この看板ゆえに、彼は「ロスチャイルド」または「赤い楯」という名前をつけたのである。
アメリカ植民地での反乱を鎮圧するため、ヘッセン選帝侯はイギリスに傭兵を貸すことによって大金を稼いだ時、ロスチャイルドはその資金の運用を委託された。彼は、自身と選帝侯両者に素晴らしい利益をもたらし、他の顧客を引き寄せた。
彼はユーデンガッセ148番地の「緑の楯」として知られる5階建ての、それまで住んでいた家より大きな家に移った。
この家はシフ家と共同で使用された。
五人の息子たちはヨーロッパの主要都市に支店を出した。
長男アムシェル・マイヤーがドイツ家を継ぎ、次男サロモン(ザロモン)・マイヤーが隣国オーストリアのウィーン、三男ネイサン(ナタン)・マイヤーがイギリスのロンドン、四男カール(カルル)・マイヤーがイタリアのナポリ、五男ヤーコプ・マイヤー(後にジェームズと改名)がフランスのパリに散る形で、ヨーロッパ全土の主要都市をおさえた。
1804年、三男ネイサン(27歳)がイギリス・ロスチャイルド商会創設
1817年、五男ジェームズ(25歳)がフランス・ロスチャイルド商会創設
1820年、次男サロモン(46歳)がオーストリア・ロスチャイルド商会創設
1821年、四男カール(33歳)がイタリア・ロスチャイルド商会創設
兄弟の中でも最も成功したのは、ロンドンのネイサンとパリのジェームズであった。
「イグナシアス・バラの『ロスチャイルド家のロマンス』という本には、ロンドンのロスチャイルドがどのようにして富を築いたかが書いてある。
彼は、ヨーロッパの運命が不安定な状態にあったワーテルローへ行き、ナポレオンが戦いに負けそうなのを知り、ブラッセルへ急いでもどった。オステンドで彼はイギリスへの船を借りようとしたが、ひどい嵐のためにだれも船を出そうとしなかった。船を借りるために、ロスチャイルドは500フラン、次に700フラン、そして最後に1000フランを提示した。ある船員は、『2000フランだったら連れて行ってもいい。それだけあれば、万が一のときでも女房にはなにかが残る』といった。嵐にもかかわらず、彼らは海峡を渡った。
翌朝、ロスチャイルドはロンドン取引所のいつもの持ち場にいた。彼の顔が青く、ひどく疲れた様子が他の人びとにもわかった。突然、彼は大量の有価証券を売りはじめた。取引所はとっさにパニックに襲われた。ロスチャイルドが売っている。わが国がワーテルローの戦いに負けたことをロスチャイルドは知っている。ロスチャイルドと彼が知っているすべての代理店は、有価証券を市場に投げつづけた。災難を止めることはできなかった。同時に彼は、だれも知らない秘密の代理店を使って、ひそかにすべての有価証券を買っていたのであった。
たった一日で、彼は100万ポンド近くの利益を確実にした。このことが次の諺となった。『連合国はワーテルローの戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだ』
1915年4月1日付けのニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じた。すなわち、1914年にネイサン・マイアー・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についてのワーテルローの物語は真実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの本を即刻発売禁止にするよう法廷に訴え出た。法廷はその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの訴えをしりぞけ、彼に法廷費用の全額支払いを命じた。この物語にかんするニューヨーク・タイムズ紙の記述には、『ロスチャイルドの全資産は20億ドルと推定される』とある」(『ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』面影橋出版)
この話は有名であるが、フランス家の当主ギイ・ド・ロスチャイルドはその著『ロスチャイルド自伝』の中で別の話を書いている。
「伝説とは反対に、ロスチャイルド家の財産はナポレオンの敗北に結び付くものではない(伝書鳩がロスチャイルド家に対して誰よりも早くワーテルローの戦いの結末を知らせ、そのことによって同家が莫大な株式取引の利益を得たという、伝説。最近、ロンドンの証券取引所の行った入念な調査は、ワーテルローの前または後の英国の公債の相場はいかなる変化も受けていなかったこと、およびネイサン・ロスチャイルドの打った『大博打』という話は完全な誤りであることを、証明した)」(『ロスチャイルド自伝』)
イギリスへ船で渡ったのか、伝書鳩が知らせたのか、真実は闇の中ではっきりしない。
伝説だけが一人歩きしている感があるが、ネイサンが戦争でぼろ儲けしたことだけは確かであろう。
しかし筆者は世間でいうように、この世の支配者はロスチャイルドであるとは思っていない。
例えば、イギリス最大の商業銀行はバークレーズ銀行だが、バークレー家の先祖はスコットランドの名家の出身でクエーカー教徒のロバート・バークレーである。
例えば、ネイサンの孫娘ハンナ・ロスチャイルドはプリムローズ家に嫁いでいるが、プリムローズ家もスコットランドの名門貴族である。例えば、別のネイサンの孫娘アニー・ロスチャイルドが嫁いだヨーク家の先祖であるフィリップ・ヨーク(ハードウィック伯爵)はイギリスの首席裁判官であった。
例えば、イングランド銀行を創設した大蔵大臣チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)、例えば、ソサエティ・オブ・フレンズ(クエーカー教団)を創設したグレイ伯爵、アイルランドのダブリン出身のギネス財閥、同じくアイルランド出身のブラウン家。
ロスチャイルド、ロスチャイルドと騒ぐ前に、これらのイギリス、スコットランド、アイルランド出身の貴族、名家、財閥の分析がしっかりとなされなければならないと考える。
ではユダヤの陰謀は存在しないのかというと、そうではない。
結果から判断すれば明らかである。
現代世界におけるユダヤ人の高い地位を考えてみて欲しい。
これをユダヤ人の優秀さのせいにしたり、はたまた単なる偶然であると考える人は、本書を読み進めるのはやめた方がいい。時間の無駄である。
陰謀の中心にユダヤがいることは確かだが、それはロスチャイルドではないということだ。
例えば、こんなエピソードがある。
「18世紀中葉のロンドンにおける最も重要なユダヤ人の一人はサンプソン・ギデオンであった。彼は英国宰相ウォルポールの友人であり、国家財政に資金を調達した。彼の金融操作は当時においては巨人の様な規模とみなされたスケールで実行された。『南海泡沫事件』の勃発に続く危機の時期、大衆は一度ならずギデオンを白眼視した。しかし彼は岩の如く確固としており、スフィンクスの如く頑固だった。当時彼はロバート・ウォルポールに対してその私的関心についてばかりでなく宰相としてのウォルポールを物質的に援助したり世論が沈静化し、信頼をとり戻すのに寄与し、かうした事を通してかなりの援助を行ったと言われている。」
1745年「王位をねらふ者」チャーリー王子の指揮の下、スチュアート家が反乱を起こし、「王位をねらふ者」の軍隊がロンドンまで迫った時、パニックが起きて大量の在庫商品が売りに出された。
サンプソン・ギデオンはそれらを最も多く買い取った。
イギリス政府公債は投げ売りされ、それらのうちのかなりの量がギデオンに買い占められた。
ユダヤ人と親密な著名な歴史家ジョン・フランシスはこの事に関し次の様に記している。
「先程述べた大反乱の時代に、『王位をねらふ者』の成功に比例して公債の値が下って行った。ある時期にはそれは非常に低価格になった。ギデオン氏は自分の可能なかぎりすべての種類の公債を購入した。友人達はそれを容易ならざる事と見なして忠告し、親切にも彼の没落を予言したが無駄であった。機敏なヘブライ人は答えた。
『もし王位をねらう者がロンドンにやってくれば彼は私の勘定を支払ふであらう。さもなければ私は大金持になるであらう。』
我々は歴史的事実を承知している。ギデオンは莫大な財産を蓄積し、準男爵となり、その子孫は時に貴族に加へられた。」
ジョン・フランシスの記述からはユダヤ人達が十八世紀初頭より英国金融市場を支配しており、ユダヤ人、サンプソン・ギデオンは十八世紀中葉に於て、約百年後にゴールドスミス家、ロスチャイルド家、リカルド家によって演じられたのと同じ役割を演じていたといふ事実について知る事が出来る。
1745年におけるイギリス政府の危機はユダヤ人集団にとっては有利な商取引だったのである。
ギデオンは1745年に自らの財産を二倍に増やした。(『ユダヤはいかにして英国を金権支配国家に変えたかー歴史的探究ー』歴史
修正研究所・刊)
このギデオンは新約聖書の国際ギデオン協会のギデオンである。
国際ギデオン協会は聖書を無料で配っている。
サンプソン・ギデオンはシナゴーグへの出席をやめ、その息子を英国国教会教徒として育てた。
キリスト教徒になったふりをしていたが、彼はシナゴーグへの献金をやめず、ユダヤ人として死んだ。
18世紀にサンプソン・ギデオンが演じた役割を、19世紀にそっくりそのまま演じたのが、言わずもがなネイサン・ロスチャイルドであった。
つまり18世紀にはロスチャイルドならぬ、サンプソン・ギデオンの大英帝国乗っ取りが喧伝されていたのである。
このことはいったい何を意味しているのであろうか。
サンプソン・ギデオンもロスチャイルドも、世界の真の支配者から目を逸らすために利用された、というのが筆者の結論である。
ネイサン・ロスチャイルドは1836年に死んだ。
ヨーロッパの諸国からぞくぞくと大使たちがネイサンの葬儀に参列し、国葬並みの一大セレモニーとなった。
当時、すべてのロンドン市民が見物に集まったといわれた。
ネイサンは急病になり、毒殺を思わせる発作に見舞われた。
医者たちは原因を突き止めることが出来ず、彼は数時間後に死亡した。
誰がこの偉大なユダヤ王を毒殺したのであろうか。
それともこれはある種の魔術の儀式(死んだと見せかけて、実は生きていた)だったのであろうか。
ネイサンの死後、ロスチャイルド家の統括権は彼の弟ジェームズに移った。
このジェームズがフランスに開いたのが、ロスチャイルド商会(フランス語読みでロチルド商会)であった。
簡単に済ますといったが、少し説明が長くなった。
これで、ロスチャイルド商会とロスチルド(ロチルド)商会の解説にかえさせて頂く。
次はウェストミンスター銀行についての説明である。
五大商業銀行の一つ、ウェストミンスター銀行の正式名はナショナル・ウェストミンスター銀行で、イギリスの商業銀行の第2位。
創業メンバーの一人デヴィッド・サロモンズは、ネイサン・ロスチャイルドの妻の姪と結婚している。
重役陣には、ロスチャイルド閨閥の名が認められる。
次はモルガン・グレンフェル商会である。モルガン・グレンフェル創業者のエドワード・グレンフェルが、J・P・モルガンと手を組み、イギリスで創設したのがモルガン・グレンフェル商会であった。
ロンドンのJ・S・モルガン商会が1910年に改組してできたのが、モルガン・グレンフェル商会である。
次にシュレーダー銀行について。
シュローダー銀行は、ドイツのシュレーダー家がイギリスに渡って分家をつくり、ナチス時代を経て分家の方が銀行家として生き残ったため、ウォール街で英語読みのシュローダー銀行として知られるようになった。
ワーバーグ一族と同じく、フォン・シュローダー家はドイツのハンブルグで銀行業を開始した。
クルト・フォン・シュローダーは1889年に生まれ、1788年創設のケルン銀行及びJ・H・シュタイン商会のパートナーであった。1933年にナチスが権力を握ったのち、シュローダーは国際決済銀行のドイツ代表に指名された。
クルト・フォン・シュローダー男爵はテュッセン男爵と共に、ナチスの財政支援を行った。
シュローダー男爵は、ITT(国際電信電話会社)の資金をヒムラーのSS(ナチス親衛隊)に集中させるパイプ役を演じた。
1938年にロンドンのシュローダー銀行は、大英帝国におけるドイツの金融代理店となった。
シュローダーのニューヨーク支店は、1936年にロックフェラー家と共にウォール街48番地にシュローダー−ロックフェラー社として合併された。
シュローダーのカールトン・P・フラーがこの会社の社長となり、アヴェリー・ロックフェラーが副社長となった。
彼は何年にもわたって、J・ヘンリー・シュローダー(イギリス家)の陰のパートナーであり、ベクテル社という建設会社を設立した。
この会社の社員は、レーガン政権で国防長官(ワインバーガー)及び国務長官(シュルツ)として指導的な役割を演じた。
ヒトラーは、1933年1月4日にケルンのシュローダー男爵邸での会談に招待された。
2時間の会談の終わりに、前首相パーペンは両者が対等の地位を占めるヒトラー=パーペン内閣を提案した。
ドイツの指導的な産業資本家や銀行家たちは、ヒットラーに資金援助することにした。
1933年1月30日、ヒトラーはドイツ首相に就任した。
1933年1月4日の会議に出席したのは、ニューヨークの法律事務所サリヴァン・アンド・クロムウェルのジョン・フォスター・ダレス(1888〜1959)とアレン・W・ダレス(1893〜1969、CIAの前身OSSのベルン事務所長)のダレス兄弟で、彼らはシ
ュローダー銀行を代表していた。
ダレス兄弟はしばしば重要な会議に姿を現した。
彼らは、パリ和平会議(1919)では合衆国を代表した。
ジョン・フォスター・ダレスはアイゼンハワー政権の国務長官として在職中に亡くなるが、一方のアレン・ダレスはCIA長官を長年務めた。
アレン・ダレスは後にJ・ヘンリー・シュローダー商会の重役になった。
彼もJ・ヘンリー・シュローダーも、親ヒトラーを疑われることはなかった。
ヒトラーをドイツの首相にして、第二次世界大戦を始めさせることが、国際的銀行家の目的であった。
一方、イギリスにあってナチスにイングランド銀行の支持を与えたのが、前出のイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンである。
ナチスの哲学者アルフレッド・ローゼンベルクはロンドンで、ノーマンと話をした後、シュローダー銀行の常務取締役であるF・C・ティアクスと会っている。
ティアクスはイングランド銀行理事でもある。
「1934年の初頭、シティーの金融家たちの選ばれた一団が、窓のない壁の後ろのノーマンの部屋に集まった。それは、ラザール・ブラザーズのパートナーのサー・ロバート・キンダースレイ、チャールズ・ハンブロー、F・C・ティアクス、サー・ヨシア・スタンプの面々であった。ノーマン総裁は、ヨーロッパの政治情勢について話した。ナチ・ドイツという名の新しい勢力が、大きな『安定した戦力』として定着していた。ノーマンは、共同作業者たちにヨーロッパの財政支援計画にヒットラーを加えるよう助言した。反対する者はだれもいなかった」(『民間が所有する中央銀行』)
J・ヘンリー・シュローダーはイギリスのイギリス−ドイツ友愛会のメンバーであり、友愛会に資金をつぎ込んだ。
その結果、ヒトラーは、多くの著名な政治家や金融業者からなる大きな親ドイツの第五列をイギリスに有すると確信したのである。
しかし事実は、ネヴィル・チェンバレンの融和政策も、ウィンストン・チャーチルの戦争政策も、共に大衆を欺く派手な演技に過ぎなかった。
日本の憲政会と政友会、アメリカの民主党と共和党、イギリスの戦争党と融和党の対立等、すべて大衆用の見世物であった。
こうして国際政治をコントロールして、所期の目的を達成するのが、秘密結社の心理操作技術なのである。
次に香港上海銀行である。香港上海銀行はサッスーン家が設立したものである。
サッスーン財閥は、18世紀に中東のメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商となっていた。
1792年にこの一族の子供として生まれたデヴィッド・サッスーンは、イラクのバグダッドで活動していたが、1832年にインドのボンベイに移住した。
サッスーン一族はアヘンの利権を狙ってインドに移住したのである。
サッスーン一族は、イギリスと清朝中国のアヘン戦争によって財産を膨らませ、インドから香港・上海への本格的な進出を始めた。
1864年、サッスーン家がリーダーとなって香港上海銀行が設立された。
初代デヴィッド・サッスーンの五男アーサーが、香港上海銀行で最大株主となった。
デヴィッドの孫エドワード・サッスーンは、ジェームズ・ロスチャイルドの孫娘アリーン・ロスチャイルドと結婚している。
別の孫ヨーゼフ・サッスーンは、グンツブルグ男爵の娘と結婚している。
グンツブルグ家は「ロシアのロスチャイルド」として最高の評価を得てきた。
一家は15世紀の古い時代まで家系をたどることができる。
1833年にキエフ地方のユダヤ人家庭に生まれたホレス・グンツブルグは、71年に男爵位を授けられた。
その3年後に、ロシアの鉄道融資に多大な貢献をしたその父親ヨーゼフにも男爵位が与えられた。
以後、アレクサンドル2世によって一家には代々この爵位が認められるようになった。
ペテルブルグに設立されたグンツブルグ銀行が、ロシア全土の金融中枢として機能し、鉄道ばかりでなくウラル、アルタイ、シベリアに及ぶ金鉱開発の総本山となっていった。
『高橋是清自伝』の中に、高橋是清がパリで公債を募集した際に、フランス工商銀行の重役ジャック・ド・グンツブルグ男爵の便宜を受けたことが記されているが、この男爵は恐らく先のグンツブルグ一族であろう。
ドイツでの公債募集はハンブルグのマックス・ワーバーグが引き受けた。
ロンドンで公債募集に便宜を図ったのが、サー・アーネスト・カッセル、ロード・ロスチャイルド、アルフレッド・ロスチャイルドである。サー・アーネスト・カッセルはドイツからイギリスへ移民し、後のエドワード7世であるウェールズ皇太子の私設銀行家となった。
カッセルの孫娘はマウントバッテン卿と結婚し、カッセル家と現在の英国王室を直接の姻戚関係にした。
シフの親友でもあるカッセルは、機関銃のマクシムを兵器商ヴィッカースに合併させた。
アルフレッド・ロスチャイルドはネイサン・ロスチャイルドの長男ライオネル・ロスチャイルドの子供である。
最後に不明のまま残ったのが、パース銀行であった。
現在、イギリスにこの名の銀行は存在していないので、合併したか名前を変えて営業していると思われる。
目下、鋭意調査中である。
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投稿者 sfu9xi | 返信 (0) | トラックバック (0)