■d-8-7 日本フリーメーソンの内幕⑦ |
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2006-09-12
引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
日本メーソンの敗北
『人間と世界の改造者(楽園を創るフリーメーソン物語)』(仙石太郎)という本によると、ユダヤ・フリーメーソンがニューヨークで戦前からすでに“日本解放会議”をもち、「専門職のメーソンを300名くらい集め、日本の解放指導者に教育して解放軍に編入する」ことを決定。これはルーズベルト大統領(オランダ系メーソン)と直結するものだったという。
いわゆるニューディール派のユダヤ人は、戦後日本の解放政策を採用したGHQ内の軍人で、フリーメーソンだった。フリーメーソンにとって解放後の日本が未来の「人間と世界の縮図、理想」と考えられたからだと述べられている。同書によると、
「ニューヨークで1943年に選び出された日本人の解放指導者には、首席候補が幣原喜重郎以下十数名、進歩系の片山哲以下十数名、そして吉田茂がロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったから特別に育成すると決まった。そして、解放要務員のメーソンが300名軍籍に入れられ軍政顧問として新日本建設の各分野に配属された。
1949年に復活した東京ロッジがスコッチライト・テンプルとして日本人だけのメーソンを形成、サンフランシスコの講和会議に活躍した」
という。
天皇の人間宣言からGHQの諸政策もフリーメーソンの政策という驚くべき内容だが、もちろん真偽は判らない。この話を日本のメーソンに聞くと、「そんなこと判りません。聞いたこともないから、おそらく嘘でしょう。フリーメーソンは政治とは無関係ですからね」と否定する。たぶん、そうだろう。政治評論家の戸川猪佐武氏にフリーメーソンについて聞いても、「戦後政治をフリーメーソンが動かしたなんて聞いたこともありませんよ」というからである。
戦後政治の中で、日本のフリーメーソンが大きな役割を果たすには余りに人数も少なく、規模も小さい。しかし、天皇入社を成功させ、支配者層の獲得をしていれば、話も違ってきたかも知れないのだ。しかし、現在に至っても、フリーメーソンの日本人はほとんど参加人数が変わっていない。その理由について、ある日本のグランド・マスターは次のように分析する。
「フリーメーソンは宗教と違って仲間を勧誘しない。これがフリーメーソンがもともと何か知られていない日本では決定的に弱い。欧米では、メーソンになるのは名誉ですから、あちらから押しかけてくるからね。
第二に日本人の精神がメーソンの個人主義を受けつけないし、自由の精神が薄いことです。第三に、日本の社会がいわゆる“タテ型”になっており、大会社の人間はそれこそ結社のようにバッジとか入社式があり、一生会社人間でフリーメーソン結社と同じ構造です。だから、日本人にはことさら別の社外組織であるクラブとか秘密結社に入って同胞愛を確かめる必要がないのだね。私は日本人がフリーメーソンの精神を受け入れ、国際的な同胞愛に目ざめるには、あと一世紀はかかると思う。日本にはまだ真の個人主義も、真の民主主義もないのですよ」
フリーメーソンが日本で発展しなかったのは、逆説的にいって日本が世界の中で、“秘密結社”のように閉鎖的で、内部の平等と同胞愛を持っているからだというのである。この意見は貴重だ。欧米の「ヨコ社会」(差別的な階級社会)に対して、日本は同人種の国家であり、フリーメーソン的な高位階級制度が社会の中に存在するから、秘密結社が育ちにくいのである。
もちろん、フリーメーソンの日本での発展がなかったことは、他にもいろいろな要因が考えられるが、何といってもフリーメーソンの教義*1が持つ宗教性が、キリスト教と同じく日本人に適さなかったのであろう。
現在、日本にはグランド・ロッジの下に20のロッジ(支部)がある。これは、横浜(No.1)、東京(No.2)、国立(No.3)、同(No.4)、京都(No.5)、名古屋(No.6)、国立(No.7)、同(No.8)、佐世保(No.9)、三沢(No.10)、東京(No.11)、神戸(No.12)、座間(No.13)、福岡(No.14)、福生(No.15)、岩国(No.16)、千歳(No.17)、東京(No.18)、沖縄(No.19)、横須賀(No.20)であり、米軍基地周辺に多い。
このほか日本グランド・ロッジに属さない外国のロッジがいくつかある。それらは、神戸(No.1401、イングランド系)、大阪(No.496、スコットランド系)、横浜(No.640、スコットランド系)、東京(No.6、マサチューセッツ系)、座間(No.151、フィリピン系)、沖縄(No.118、フィリピン系)などだが、これらは明治以来の伝統あるロッジで“既得権”として日本グランド・ロッジの管轄下に入らなかった。こちらの方は取材に応じてくれず、その内容はわからないが、「日本人はほとんどいない」(日本のメーソン)という。
日本グランド・ロッジ創設後の、グランド・マスターは次の通りだ。*2
・カルロス・ロドリゲス・ヒメネス(1958)*3
・堀内貞一(1959)*4
・東ヶ崎潔(1960)*5
・カール・T・ナカムラ(1961)*6
・ノヘア・O・A・ペック(1962)*7
・ジョージ・B・モーグリス(1963)
・ジョージ・H・ブース(1964)
・北村三郎(1965)
・ノーマン・コーエン(1966)
・マサジ・マツモト(1967)
・チェスター・O・ニールセン(1968)
・フロイド・J・ロバーソン(1969)
・山田精夫(1970)
・フローレン・L・クイック(1971)
・フレデリック・S・カシワギ(1972)
・チャールス・P・ウェザーマン(1973)
・山田彝(1974)
・レオ・N・パーラヴェッキオ(1975)
・西山茂(1976)
・ロイ・ベーカー(1977)
・ロナルド・E・ネイピア(1978)
・ハワード・M・ヴォヌ・ジュニア(1979)
・北村安忠(1980)
・高野清(1981)
圧倒的に外人が多いが、日本人でも二世の人が目立つ。現在の高野清氏も二世である。
*1:「メーソンは凡て宇宙創造の神を信ず」「メーソンは凡て霊魂の不滅を信ず」(『憲章・古来の道標・布告・其の他』)と誓う。フリーメーソンは「万人の一致する宗教」を目指すが、それは必ずしも同一の宗教でないが、「一神論である」(日本グランド・ロッジ・メーソン教育委員会、フローレン・クイック委員長)。その神はどうやらユダヤ・キリスト教的な神であることは、フリーメーソンの精神や儀式にはっきりあらわれている。儀式はユダヤ教(旧約聖書)にしたがって催されるのだ。
*2:グランド・マスターであることは、フリーメーソンの盛んな国では大変な名誉だという。
*3:1898年ヴェネズエラ生まれ。カラカス大法学博士、1920年から政府文官、1930年から外務省に移り、駐日ヴェネズエラ総領事として1941年まで勤める。1945年、サンフランシスコの国連会議で同国代表、その後、各国の大使を歴任。メーソンには1929年カラカスで入会。1947年、ヴェネズエラのグランド・マスター、同国の最高評議会のメンバー。日本では、1937年後三つのロッジに加入、英国滞在中にロンドンのロッジにも入っている。各国のメーソンであって、1957年の日本グランド・ロッジ結成に活躍、満場一致でグランド・マスターに選ばれた。その活躍で「日本のミスター・メーソン」と名づけられている。
*4:1887年岡山県生まれ。シアトルのワシントン大で法学博士を受け、ニューヨークの法律事務所に勤務。1925年に日本に帰国して法律事務所を開設。新日本産業、神奈川リョーユー社の社長ほかいくつかの会社を経営。1951年、日本でメーソンに加入、1959−60年のグランド・マスターに就任。1953年、東京スコティシュ・ライトのメンバーとなり、1957年に33位階の名誉を受ける。東京ヨーク・ライトのメンバーでもある。彼は身体障害者救済事業で目ざましい働きをなした。
*5:1895年カリフォルニア州で生まれる。カリフォルニア大を卒業後、米軍に入隊、1920年復員して外国貿易会社へ勤務。サンフランシスコのキリスト日曜学校日本人教会の校長、YMCAの支部理事会会長、ボーイ・スカウト運動に参加。1933年日本へ移り、教育協会世界連盟の会議に参加、戦後は日経連でアメリカ経済ミッションを補佐、米日協会の役 員などした。1946年、ジャパンタイムズの社長(1956年まで)をやり、そのほか肩書きも多い。国際基督教大理事会会長、米日協会理事、日本聖書協会理事、聖ルカ国際病院理事、国際教育協会理事、国際社会福祉事業協会理事ほかをもつ。メーソンとしては、日本でマスター・メーソンになり、1951年からスコティシュ・ライトのメンバー。1955年33位階の名誉を受け、1960−61年のグランド・マスターである。アメリカのデラウェア州のメーソンでもある。
*6:1924年ネブラスカ州生まれ。日本人収容所生活をし、1944年米軍に入隊、通信隊の文官。1952年、日本でマスター・メーソンとなり、その後スコティシュ・ライト、ヨーク・ライトのメンバー。1961年満場一致でグランド・マスターに選任される。「メーソンに加入して以来、彼は惜しみなくメーソンの理想を日本に普及させるため人生を捧げてきた」といわれる。
*7:1900年ハワイ生まれ。米海軍の工兵隊に入り、朝鮮戦争に参加、後駐日米軍の文官となった。1937年マスター・メーソンになり、現在フィリピンと日本の六つのロッジの名誉会員。1938年ホノルルでスコティシュ・ライトのメンバー、1960年に33位階の名誉を受け、最高評議会のメンバーでもある。日本で四つのヨーク・ライトに入っており、1962−63年のグランド・マスターとなった。
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投稿者 sfu9xi | 返信 (0) | トラックバック (0)