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気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板

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事実 投稿者:バード投稿日:2008/09/14(Sun) 21:30:07

NHKを初めとするマスメディアは、参議院第一党の代表の政策発表を報道せず、政策発表を正式にしていない政権政党の総裁候補者の報道を時間をかけて報道したようである。

マスメディアは、政権政党に擦り寄る方針のようだ。

● 吉野裕子(よしの・ひろこ)という人

巨星福岡正信氏が8月に亡くなられた(95歳)が、同じく巨星の吉野裕子(よしのひろこ)氏も、今年の4月に亡くなられたということである(91歳)。

吉野裕子氏は、在野の民俗学者ということである。『蛇信仰』研究家でもある。専業主婦であったが、扇の起源についての疑問から勉強し直し、37歳?に津田塾大学を卒業したそうだ。葬儀は故人の遺志で行わなかったということである。

在野の学者であるためか、吉野氏の本は既成概念に捉われず、古今の民衆の目線の上に立った論考であるので、素直な気持ちで読むことができる。日本人自身が長らく忘れてしまった日本の過去を解り易く書いてくれている。氏には学ぶべき点が多い。氏によれば、日本および日本人の多くの謎が解けるかもしれない、と思う。

(転載貼り付けはじめ)

◆ http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%C8%CC%EE%CD%B5%BB%D2

吉野裕子 よしのひろこ

在野の民俗学者。1916年東京生まれ。

1954年津田塾大学卒。専業主婦であったが、趣味で習っていた日本舞踊でなぜ扇を使うのか、扇の起源は何なのか、という疑問に突然とらわれ、調査した結果を著書『扇』(人文書院)にまとめる。

1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭」で文学博士号を取得。

その他の著書に『蛇』(講談社学術文庫)、『陰陽五行と日本の文化』(大和書房)など。

◆ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 吉野裕子

吉野裕子(よしの ひろこ、1916年 - 2008年4月18日)は、民俗学者。東京都出身。1942年『風のさそひ』を上梓、専業主婦となるが、日本舞踊を習っていたことから民俗学に関心をもち、1954年津田塾大学卒業、1970年著書『扇』を刊行、1977年「陰陽五行思想から見た日本の祭り」により筑波大学(東京教育大学)文学博士号取得。在野の学者として著書多数。全集全12巻がある。
著書
風のさそひ 雄山閣 1942
扇 「性」と古代信仰の秘密を物語る「扇」の謎 学生社 1970
祭りの原理 慶友社 1972
日本古代呪術 陰陽五行と日本原始信仰 大和書房 1974
隠された神々 古代信仰と陰陽五行 講談社現代新書 1975
陰陽五行思想からみた日本の祭 伊勢神宮祭祀・大嘗祭を中心として 弘文堂 1978
蛇 日本の蛇信仰 法政大学出版局 1979 のち講談社学術文庫
狐 陰陽五行と稲荷信仰 法政大学出版局 1980
日本人の死生観 蛇信仰の視座から 講談社現代新書 1982
陰陽五行と日本の民俗 人文書院 1983
易と日本の祭祀 神道への一視点 人文書院 1984
陰陽五行と童児祭祀 人文書院 1986
大嘗祭 天皇即位式の構造 弘文堂 1987 「天皇の祭り」講談社学術文庫
持統天皇 日本古代帝王の呪術 人文書院 1988
山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 人文書院 1989
神々の誕生 易・五行と日本の神々 岩波書店 1990 のち同時代ライブラリー
五行循環 人文書院 1992
十二支 易・五行と日本の民俗 人文書院 1994
ダルマの民俗学 陰陽五行から解く 岩波新書 1995
陰陽五行と日本の天皇 人文書院 1998
易・五行と源氏の世界 人文書院 1999
カミナリさまはなぜヘソをねらうのか サンマーク出版 2000
陰陽五行と日本の文化 宇宙の法則で秘められた謎を解く 大和書房 2003
古代日本の女性天皇 人文書院 2005
吉野裕子全集 全12巻 人文書院 2007

◆ http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080422/1208823966

ああああああ、吉野裕子先生!
 ⇒asahi.com:タブー破る新説次々、民俗学者の吉野裕子さんが死去 - 関西

 50歳から独学で研究を始め、タブーを破る新説を次々と打ち出した民俗学者、吉野裕子(よしの・ひろこ)さんが18日、心不全のため奈良市内の病院で死去した。91歳だった。葬儀は故人の遺志で行わない。お別れの会を予定しているが、日時・会場は未定。自宅は奈良市大宮町。
 お年だからとは思っていたけど、最近全集も出てきたし、鳥越先生のようにお元気でいらっしゃるとばかり思ってました。

 95年に東京から奈良市へ転居。生前、「素人の晩学だったからこそ、学界の既成概念にとらわれなかった」と話していた。昨年1月から「吉野裕子全集」(人文書院)が発行され、最終の12巻の発行を今年6月に控えていた。
 吉野先生には直接学んだことはないけど、学恩ということでは感謝の言葉に尽くせません。ありがとうございました。

 ⇒「 扇—性と古代信仰 (1984年): 吉野 裕子: 本」

 私が沖縄に出奔した大きな理由ではないけど一つの理由がこの本。この本の新垣先生の息子さんにお会いしていろいろお話を伺いました。

(転載貼り付けおわり)


● 日本の正史『日本書紀』が、陰陽五行という中国古代哲学によって書き出されているという事実

吉野氏はその著書で、『日本書紀』が陰陽五行によって書き出されていることを明確に指摘している。

(引用はじめ:吉野裕子『陰陽五行と日本の天皇』人文書院、1998年)

『日本書紀』(720年撰上)の冒頭は、次の文で始まっている。
「古(いにし)へ、天地未だ剖(わか)れず、陰陽(おんよう)の分れざりし時、渾沌(まろかれ)たること鶏子(とりのこ、たまご)の如く、溟滓(くぐも)りて牙(きざ)しを含(ふふ)めりき。その清陽(すみあきらか)なるもの薄靡(たなび)きて天と為り、重濁(おもくにご)れるもの、淹滯(とどこほ)りて地となるに及びて、精妙(たへ)なるが合ひ搏(あふ)ぐは易く、重濁(にご)れるが凝(こ)り場(かた)まるは難ければ、天まず成りて地、後に定まる。然る後に、神聖(かみ)その中に生(あ)れましき。
故(かれ)曰く、開闢(かいびゃく)の初に洲壞(くに)の浮き漂(ただよ)へるは、譬(たと)えばなほ游(あそ)ぶ魚の水の上に浮(うか)べる如し。時に天地の中に一つの物生れり。形葦牙(あしかび)の如くにして、すなわち神と化爲(な)るを、國の常立(とこたち)の尊と号(まを)す。」

ところで、中国の書『淮南子(えなんじ)』は前漢の武帝の時代(前140年)、淮南(わいなん)王劉安(りゅうあん)によって撰せられた書である。そのなかの「天文訓」の初めにみえる天地創世記は次の通りである。
「天地いまだ形(あらは)れざるときは、憑々翼々洞々濁々たり、故に大詔(たいせう)といふ。(中略)清陽(せいよう)なるものは薄靡(はくび)して天となり、重濁(ぢうだく)なる者は凝滞(ぎょうたい)して地となる。精妙(せいめう)の合専(がふせん)するは易く、重濁の凝ケツ(きょうけつ)するは難し。故に天、先づ成りて地、後に定まる。」

また『三五暦記』(220−280年、呉、徐整撰)には、
「未だ天地あらざりしとき混沌として�子(たまご)の如く、溟滓(めいこう)として始めて牙(きざ)し、蒙鴻(もうこう)として滋萌す」
と見え、『尚書大伝』(鄭注)には、
「魚は蠢の水に生じて、水に遊ぶものなり」
という表現も見える。

以上を総合すると『日本書紀』の冒頭文は、すべて中国古典の創世記およびその表現の寄せ集めであることが判る。中国創世記は中国の思想哲学の重要な導入部をなすものであるが、日本神話の冒頭が、中国古典の中でも重要な部分の借用ではじまっている事実は、私どもにさらに次のことを類推させる。

それは揺籃期に文字をはじめとして中国の思想・哲学・学術のあらゆる面においてその洗礼をうけた日本文化は、その基底に、中国文化の計り知れない影響を蒙っていることである。

陰陽五行思想が『記紀』のなかに顕著であることは諸家によって指摘されているが、とりわけ、飯島忠夫博士は、夙(つと)に次のように述べておられる。
「日本書紀には陰陽思想が含まれている。特に神代の巻において最も著しい。陰陽思想は中国の天文学の理論であって、天地の成立も皆之によって説明される。易の哲学もまたこの適用に外ならない。そして五行思想は、またこの陰陽思想の展開したものである。神代説話の初めにある天地開闢、国土生成の段に、この思想が加わっていることは、神代説話に中国文化の影響があることを談(ものがた)っているものといわねばならぬ。」(飯島忠夫『日本上古史論』49頁、第一書房、1947年)

日本の正史『書紀』が、陰陽五行という古代哲学によって書き出されているということである。(p.18−20)
(引用おわり)

陰陽五行思想が『記紀』のなかに顕著であることは諸家によって指摘されているそうだが、吉野氏は簡潔明瞭にそれを書いている。

副島先生は、「日本の神道は、日本固有のものではなくて、本当は中国伝来のものであり、本当は中国の道教そのものであろう」と言っている。(副島隆彦『時代を見通す力』p.148)

● 五、六世紀ころからの日本人のすべての営みが、陰陽五行の法則にのっとって行われてきた事実

また吉野氏は、五、六世紀ころからの日本人のすべての営みが、陰陽五行の法則にのっとって行われてきたことを指摘している。

(引用はじめ:吉野裕子『カミナリさまはなぜヘソをねらうのか』サンマーク出版:2000年)

いま若者たちがアメリカ文化に影響を受けているのと同様、その昔、日本人は、中国に大変影響を受けてきました。古代中国の哲学、宇宙観、科学が、五、六世紀に日本に入ってきて以来、先人たちは約千五百年間に渡り、物心両面において、それを毎日の暮らしの基準にしてきたのです。

お稲荷さんに油揚げをお供えするのも、ダルマさんが赤いのも、おなかに赤ちゃんができて五ヶ月になると戌(いぬ)の日に岩田帯を締めるのも、毎年の干支(えと)も、そして、カミナリさまはなぜヘソをねらうのかも、古代中国の考え方に照らせば、本当はみんな、しっかりとした根拠・理由があってのことでした。しかし、いつしか時とともにそれはわからなくなってしまって、行事や言葉という「形」だけが現在まで続いてきています。

その古代中国の哲学、宇宙観、科学といったものが、これからみなさんにお話しする「陰陽五行(いんようごぎょう)」なのです。

陰陽五行というと、何やらあまり使われない昔の漢字がたくさん出てきて、たいそう面倒くさいものだと思われがちですが、これは簡単にいってしまえば、宇宙の法則です。

「陰陽」とは、すべての森羅万象(しんらばんしょう)を表す概念で、受動的・防衛的な状態を「陰」、逆に能動的・進取的な状態を「陽」に分ける考え方です。たとえば、太陽は「陽」、月は「陰」、昼は「陽」、夜は「陰」、天は「陽」、地は「陰」です。そして、宇宙の本質的な状態というのは、この「陽」と「陰」がひとつになって調和した状態で、易ではこれを「太極」というのです。これは大事なことなので、ぜひ覚えておいてください。

「五行」とは、いまの言葉でいいますと、「五つの巡るもの」ということです。森羅万象はこの五つの動きによって季節が変わったり、方向や時間が決まったりするという考えです。その五つとは「木、火、土、金、水」で、たとえば「木」は春や東などを示し、「水」は冬や北などをあらわします。

……とにかく、五、六世紀ころからの日本人のすべての営みが、この陰陽五行の法則にのっとって行われてきたことは事実です。古代の都での祭政も遷都も、全国の神社の祭政も、そして一般庶民である私たちの先人たちの暮らしもまた、この法則に基づいていました。

ところが、明治維新を境にして、日本人たちは性急に西欧の文化を取り入れ、従来の慣習をすべて捨て去ってしまったので、私たちは祖先とのつながりを断ち切られ、いつの間にか、すべてが「迷信」のように思われているわけです。

私は、二十一世紀を生きるみなさんにこそ、つい百数十年前までの日本人が信じて疑わなかったこの宇宙の法則について学んでほしいと思い、筆をとりました。

(引用おわり)

「古代中国の哲学、宇宙観、科学が、五、六世紀に日本に入ってきて以来、先人たちは約千五百年間に渡り、物心両面において、それを毎日の暮らしの基準にしてきた」というのである。

どうもそうらしいということは庶民感覚で分かるものの、民俗学者が多数の例を検証してそれを明言するというのは画期的であるだろう。

江戸時代は諸処の経緯から、幕府は儒教や仏教を重んじたが、民間信仰を根こそぎ抹殺はしなかった。日本の権力者たちは、非人間的な様々な差別をおこなってきたが、それでも唯一神教ユダヤ・キリスト教のように、他宗教の抹殺まではしなかった。そこまでは酷くなかった。(現代も一神教の極悪非道は続いており、現在は世界恐慌でありその渦中にある。)

● 古代原始宗教(蛇信仰)と陰陽五行は基本が似ており、天武朝の宗教改革はスムーズに行なわれた

陰陽五行は蛇信仰と親和性があるようだ。(陰陽五行は老荘思想とも親和性があるのだろう。)

(引用はじめ:吉野裕子『蛇』講談社学術文庫、1999年、初刊、1979年)

日本民族は縄文の昔から蛇を信仰してきたが、それに付随するものとして蛇を祀(まつ)る蛇巫(へびふ)の存在は、当然考えられることであって、蛇を頭に巻く縄文の巫女(みこ)土偶はそれを裏書するものである。この土偶は疑いもなく蛇を祀ることをその仕事とした女蛇巫像として捉えられる。
古代になると、連続三角紋のついた襷(たすき)・帯・スカートなどを身に纏(まと)った巫女埴輪(はにわ)、三角紋を同様に彫り込んだ帽子を被った男子埴輪が出土している。
連続三角紋については、……私はこれを蛇の皮の紋様、つまり蛇衣装を象徴するものと考える。(p.218)

古代日本の哲学というものがもしあったとすれば、蛇信仰の根強さから考えて、それは多分に蛇の生態に負うものだったと思われる。
蛇の生態の中でも、その脱皮ほど彼らに驚異の念を与えたものはなく、自らの殻から出てはこもり、こもっては出て生命の更新をはかるその脱皮の作用を通して、古代日本人は宇宙万象の輪廻転生の実相を把握したのではなかろうか。
その結果、天象としては太陽の運行、地象としては植物の枯死再生をもすべて、こもりと顕現のくり返しであると観じ、この繰り返しによってはじめて永世と新生が保証される、との認識を得たのである。この「こもりと顕現」の認識は中国哲学、陰陽五行思想の受け入れを容易にし、その素地の上に天武朝の宗教改革は極めてスムーズに行なわれ、新旧の思想は併存して神道を形成し、はるか後代に及ぶことになる。(p.277−278)

(引用おわり)

大和朝廷の首長が、中国における北極星の神霊化・天皇天帝の名を自らの呼称として撰用して以来、宗教改革が始まったのである。
古代原始宗教(蛇信仰)と陰陽五行は基本的な哲学が同じなので、(天武朝を頂点とする)宗教改革はスムーズに行なわれた。自然とうまく共存する思想である。福岡正信氏も陰陽思想を真理に即したものとして扱っている。

これで『蛇信仰』は表舞台から消え、その形骸化が加速されたのだろう。
しかし、自然や人類の歴史をよく知るには、『蛇信仰』の実例を理解することが必要だろう。

● 浅草寺のほおずき市も『蛇信仰』に関係がある

浅草寺には、毎年7月9日、10日に「ほおずき市」の祭がある。

◆ http://www.aquageographic.com/asakusa/events/plantfair/
◆ http://tokyo-attraction.com/tokyo/asakusa/index.html

『日本書紀』の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の段には、
「(八岐大蛇の)眼は赤酸醤(あかかがち、赤いほおずき)の如くである(赤酸醤(あかかがち)、此を阿箇箇鵝知(あかかがち)と云う)。」(『日本書紀』巻第一神代上第八段本文)
という記述がある。このように、ほおずきの実は、「蛇の目」に見立てられる。
また実莢(みざや)を含めると、「蛇の頭部」に見立てられる。

「ほおずき市」は蛇信仰の痕跡であるだろう。
副島先生が言っているように、「浅草寺は仏教の寺ではなく、陰陽寺である。陰陽五行や道教の寺である」。(前掲書p.96)だから、蛇信仰でもある。民間信仰の寺である。

トロイを発掘し、ギリシアを発掘したシュリーマンは、明治維新直前の1865年に、幕末の日本に来て、江戸近辺を見物して回ったが、この浅草寺も見物している。そのときの感想は、浅草寺には(一般的な観念の)宗教はない。多くの店や見世物による娯楽がある場所だ、ということであった。(シュリーマン『清国・日本滞在記』講談社学術文庫)

● すべての他宗教を抹殺する唯一神教ユダヤ・キリスト教の意味

唯一神教ユダヤ・キリスト教は、すべての他宗教を抹殺する。
彼らは、「アニミズム→シャーマニズム→民族宗教(多神教)→世界宗教(一神教)」という宗教進化の図式を勝手につくっている。そして世界宗教(一神教)だけが宗教の名に値するとしている。

それは400万年の先史時代という人類創業の時代を無視し、顧みないことでもある。それは、自然および人類を破壊することを意味する。
彼らの現在の動きをよくみると、これがはっきり見えるのだが、マスメディアがウソ情報を流してそれを邪魔する。隠蔽が隠蔽を呼び、ウソがウソを呼ぶ。ウソだらけである。ウソだらけだから、ウソがウソに見えなくなっているのだ。

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