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田中角栄の真情。「政局を安定させ、国民の生命と財産を守るためこれからも中 曽根内閣を支えてゆく」 その裏で中曽根は何を? 亀ちゃんファン

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田中角栄回顧録」早坂茂三 集英社文庫より

【転載開始】

〔ロッキード事件──泥沼闘争のはじまり〕
 四十九年十一月二十六日、田中角栄は内閣総理大臣の辞意を表明した。
マスコミは「“金脈”問題で追い詰められての退陣」などと解説し、世間の大方もまた、政治的に進退きわまって、辞める牡をくくった、というふうに受け取っていたようである。とにかく、それが一般的な見方であった。
 田中は四十七年七月七日、日中と列島改造をひっさげて、さっそうと政治の表舞台に登場した。しかし、佐藤時代から引き継がれた過剰流動性の管理の失敗と、四十八年十月、世界を直撃した原油価格の高騰で、国内の物価、地価が騰貴して、いわゆる狂乱物価が現出した。
彼は心ならずも総需要抑制策に追い込まれ、政権のエネルギーを急速に失っていった。
これは事実だが、田中自身は、辞意表明直前のころには、政治的に追い詰められるよりも先に、肉体的に消耗しきっていたのである。もともと血庄と血糖値がやや高く、加えて、バセドー氏病という厄介な持病を抱えていた彼は、総理大臣の激職に就いた後、血圧が二百の上限を超えることがしばしばであった。血糖値も二百を超えて三百から四百に近づくことがよくあった。それに、九月の北米・中米訪問、十月下旬には炎熱のニュージーランド、オーストラリア、ビルマ訪問と、大がかりな外遊が続き、さすがタフなおやじも疲労の蓄積が限界を超えていた。
そして、人一倍、負けん気の強い彼の政治的ビヘイビアを生理的、心理的な面からも強く圧迫していたのである。「辞めるしかない」と彼に決意させたのは、なによりも、まず肉体的な理由であった。

 田中は「一夜、沛然(はいぜん)として降る豪雨に心耳を澄ます思いである」と総理辞任の意思を表明して、二年五カ月にわたり担ってきた政権にみずから終止符を打つ。そこには“庶民宰相”と歓迎されたときとは、まったく違った田中の顔があった。苛酷な政治の現実である。
 正式に辞任(十二月九日)した少し後、彼はホッとした心境をにじませた口ぶりで、私にこういった。「総理なんていうのは、まあ、一回やれば結構だ。あれは血圧と血糖値ばかり上がる商売だ。衆議院、参議院、予算委員会と、朝から晩まで缶詰めにされる。
 そして、入れ代わり立ち代わり、相手代われど主代わらずで、オレを怒らせよう、怒らせようと仕掛けてくる。あれに耐えるのは人間わざじゃない。終わったらウィスキーをがぶ飲みして、ストンと寝るようにしなけりゃ身がもたん」。

 辞任後一年余り、田中には静かな日々があった。
 ところが、五十一年の二月四日、海の向こうのアメリカから日本列島に向けて、何やら妙な石ころが投げ込まれた。チャーチ委員会(米上院外交委多国籍企業小委員会)におけるロッキード社問題審議のニュースである。これが後に政治家・田中角栄の運命を狂わせるドラマ開幕のベルであった。しかし、当時の私にとって、それが田中を十年以上も地獄の戦いに引きずり込む、いわば狼煙であったとは、むろん、知る由もない。
 事実、日夜かたわらで接していた私から見ても、田中自身はその問題が自分に向けられているという意識、あるいは認識はまったく持っていなかった。そんな予感や気配さえ感ドしていないようであった。

 三月に入って間もなく、田中と一緒に目白の事務所でテレビを見ていると、「ロッキード、トライスター、L1011」という機種のジェット旅客機が紹介され、アナウンサーが早口で説明している。すると、おやじが私に真顔で「おい、L1011とは、いったい何だ。トライスターというのは、どういう意味なんだ」と聞いた。私は真面目に答えた。
 しかし、ふだんと変わらない田中に関係なく、世間は“ロッキード問題”で騒然となっていった。児玉、小佐野などの名前が新聞、テレビに連日、登場する。田中の名前も出てきた。
「こりゃ何かいわなきゃならんかもしれんな。お前、ちょっと書いてくれ」──三月の中旬が過ぎて、おやじは私にそう命ドした。私は原案をつくって、何回か書き直し、彼に渡すと、「うん、これでいいだろう」といって、何カ所か赤字を入れた。これが四月二日に発表された田中角栄の「私の所感」である。

 春が過ぎて、暑さに向かうにつれロッキード騒ぎは、ただならぬ様相を帯びてきた。
図会のロッキード特別委員会が次々と証人を喚問し、丸紅、全日空の幹部が逮捕された。
ところが、その間、私は田中の言動がおかしいとか、神経がピリピリしているとか感じたことは一度もなかった。彼はいつもと同じように、目白と平河町の田中事務所を往復し、マイペースで大勢の客に会っていた。おやじも私も、頭上に大石が落ちてくるとは、夢にも思っていなかったのである。今、考えてみれば、主従二人ともおめでたいとしか、いいようがない。だから、なにがしかの資料、書類といったものを移動させ、処分することなど、思いもよらなかった。
 
七月二十六日の朝、当時、落選中だった福田派の福家俊一から電話があって、「福田(赳夫)がきみに会いたいといっている。角サンは無理だろうから、早坂君、来てくれんかね」といってきた。
おやじに話すと、笑って「まあ、いってこい。福田君が何をいうか、聞いてくればいい」──私は夜九時、赤坂の料亭『たん熊』に入った。間もなく福田副総理(当時)が姿を見せ、お茶とメロンだけのテーブルをはさんで私と向かいあった。
福田が「いろいろな動きがあるので、実は角サンのことを心配している」と切り出した。要するに、三木(首相)のやっていることはおかしい。肺に落ちない。
角サンのために何か自分にできることがあれば、何でも私はやるつもりだ。遠慮なくいってくれ──ということであった。私は「ご心配ありがとうございます。副総理のお言葉は、間違いなく主人に伝えます」といって、そこからそのまま自分の家に帰った。

 翌二十七日は早朝から暑い日だった。おやじは朝が早いから、七時半ころには目白に着かなければと、身仕度をしていたら、横目で見ていたテレビの画面にニュース速報のテロップが流れた。「田中前首相、東京地検に出頭」
 私は一瞬、棒立ちになった。が、すぐに思い直して目白に電話を入れた。書生がうわずった声で「先生は先ほど東京地検の方とご一緒にお出かけになりました」と答えた。
「わかった」──受話器を置くと、すぐ電話が鳴った。「福田赳夫だ。早坂君、えらいことになった。私は全く知らなかったが、何でも手伝うからいってくれ」「副総理、あなたが今朝のことを知らなかったはずはありません。それなのに、ゆうべ、わざわざ私を呼んで田中をコケにされた。もう心配は一切ご無用です」──私は激昂してガチャンと電話を切った。
 こうしてロッキードの泥沼闘争が始まったのである。

 田中が逮捕された日、私は朝九時から夕方近くまで東京地検の平河町事務所授査に立ち会い、西村英二 二階堂進ら田中派幹部との善後策の協議、目白事務所、選挙区との電話連絡、記者会見など息づく暇もなかった。知人の上月一男弁護士と一緒に東京地検へ出かけ、高瀬検事正(当時)に会ったのは、夜九時すぎである。検事正は私たちを丁重に迎えてくれた。「田中に見苦しい振る舞いはありませんでしたか」「前総理は堂々たる態度でした」「特別扱いとは申しませんが、拘置所では、できるだけの便宜を計っていただきたい」「承知しました」──こうしたやり取りの後、私は検事正から田中が毛筆で認(したた)めた自民党離党届、七日会(田中派)退会届の書類二通を受けとった。中身を確かめると、いつもの端正な筆跡と少しも変わるところがなく、息づかいの乱れも感じられなかった。人目を避けて弁護士と外に出ると、東京の夜の闇は深かった。それを今でも私は鮮やかに覚えている。

 この日の夕刊、翌日の各紙朝刊は、ちょうど太平洋戦争が勃発したときのように、いずれも紙面いっぱいに大きな見出しが躍っていた。田中派は雲散霧消すると断定していた。

 しかし、その後の十二年にわたる事実の経過はどうであったろうか。
おやじがどんな苦境に立っても、田中派から“脱藩者”は出なかったのである。
田中は逮捕され、起訴され、実刑判決を受け、苦闘十年、ついに病に倒れた。この四つのうち一つだけでも、並みの派閥は家鳴り振動して、おかしくなったに違いない。
しかし、田中派は危機あるごとに強大になっていった。おやじは内外からキングメーカーといわれ、自民党最大派閥の領袖であり続けた。日本政治史上の偉観といってよい。
 奇蹟の秘密は何か。田中角栄が政治というパケモノの正体を理解していたからである。
 人間洞察の深さにおいて他の政治家とケタ違いであったからだ。みずから心血を注いでつくり上げた木曜クラブ(田中派)と、その仲間たち、角栄自身と“政治”について、田中はじっくりと語っている。

〔田中派の友人たちとわたし〕
今の日本で、このわたしほどマスコミの標的となっている者は、ほかにいない。
それで、マスコミの連中に「きみら、なんでぼくを目の敵にするんだ」って聞いたら、「あなたを本質的に目の敵にしている層がある」「田中を倒さずんば日本の保守党は倒せない、と思っているグループがある。それに狙われているんだからしようがない」なんていったのがいる。
 これはいったい、どういう意味なんだ。
 なるほど、わたしは総理大臣もつとめた。しかし、一方で自民党の名誉を傷つけたことは事実だし、国民にも迷惑をかけている。そういう意味ではね、わたしだって、これぐらいマスコミにアジられたり、攻撃の目標にされても止むを得ないと思ってはいるさ。しかし“闇将軍”なんていう悪辣なことは、わたしはいささかもやっていない。

わたしだって切れば血の出る日本人だからね、八年も九年もぶっ通しでいじめられていれば、普通なら参ってしまうところだ。「これだけカンナで削られ、ヤスリにかけられていて、あなたはなんで参らんのですか」と、よその人から真顔でよく聞かれることがある。
わたしが参らずに元気でやっているのは、「マスコミに指弾されるようなことは何もない」という自信を心底深く持っているからだ。もし、わたしに多少ともやましいところがあって、内心忸怩たるものがあれば血糖値が三百か四百にバネ上がって、とっくの昔に一巻の終わりになってるはずだよ。

 わたしの心の奥底に救いがなければ、これだけ朝から晩までぶったたかれておって、生きてはいられないよ。だから、自然体で元気にやっていられるんだ。
 目も口もあけていられないほど攻めてくる連中がいる一方で、わたしを理解し信頼し、応援してくれる人たちもまた、たくさんいる。
この世の中、案外、捨てたものではないと感じるのは、わたしを内側から支えてくれるものがあるからなんだ。
田中派の友人たちというのは、わたしにとって、そのような人たちだ。
お互い非常に強い友情で結ばれ、みんながわたしを信用してくれている。
今度の事件に対してだって、わたしへの絶対の信頼を変えずにいてくれるんだ。
こんなにうれしいことがあるかい。田中派が大勢でまとまって、行動している大前提には、友情と信頼というものがある。マスコミはそのへんを見落としているんだ。
 打ち首場へいく人の妻や子ならば、一蓮托生ということで、行を共にするのもしようがないこともある。しかし、選挙の洗礼を経て、有権者から国政の付託を受けている者が何の自信もなく、わたしとグループを組んではいかない。

 金でつなぎ止めたという見方もあるのだろうが、わたしにそんな金なんかあるわけがない。
 これほどライトが当たっていて、金など集まるわけがないじゃないか。財界で田中に金を出したっていう話があれば聞きたいくらいだ。それなのに、わたしを“錬金術師”とか“私設日銀総裁”みたいにいうのはおかしな話だよ。そこへちょうど五億円という問題をぶっつけて、「これだ、これだ」と騒いでいるわけなんだ。わたしがそんなことをいってもしょうがないけど、金というものはあってもないようにいうもんだし、なくてもあるようにいうのが世間なんでね。それをいかにも金があるようにいってくれるんだから、わたしも信用がついていいけれども、正直なところ、ほどほどにしてもらいたいと思っている。

 人間だれしも、若いときはみんな偉くなりたいと思うものだ。しかし、そう簡単になれるもんじゃない。ひとかどの作家になるためには、ある意味で錯乱、狂気の人でなければなら ない。地獄の底までのぞいて、人の世の裏、表、人間のすばらしさとおぞましさを見、体験し、知っていなければ、多くの人を感動させ、後世に残るようなものを書くことはできないよ。

経験も、知識も、素養もなくて、しゃべってばかりいるのは、バカ騒ぎを繰り広げているだけのことだ。しまいには誰も相手にしなくなる。
 わたしには何が何でも代議士の地位に固執しようという気持ちはない。お天気ならゴルフ日和だ。さあ、いこう、二、三ラウンドやろう。雨なら本を読もう、映画を観にいこう。ちょっと曇りだから、インドアでゴルフの練習をやろう。そんな具合でね、今は自由聞達に生きている。わたしも齢六十を過ぎて、あくせくする気持ちはなくなった。毀誉褒貶もぜんぜん気にならなくなった。これでも小さな寺の住職ぐらいにはなれると思ってるんだ。今はね。

 わたしは宗教書を読む。このあいだも三日ぐらいかけて、出雲大社の大黒様を読んだよ。
 日蓮でも親鸞でも空海でも最澄でも、何でも読む。その一方では、馬に関する本は世界的な種馬の本まで読んでいるんだ。馬が大好きだからね。昔は『広辞苑』を初めから終わりまで繰り返し、繰り返し読んで、とても楽しかったものだ。わたしは大学を出てないけども、旧制中学の四年修了程度までのことは全部、覚えているよ。漢詩も好きだ。「江蘇城外寒山寺」は深夜の景色か、明け方の景色か、それぐらいの判断はつく。

 大学生を対象にしたアンケート調査でね、わたしは「尊敬する人物」のトップだそうだ。
 しかし「好きな人」のトップではなかったらしい。だからマスコミにいじめられるのかもしれない。東京・駒場の東京大学教養学部、あそこでやっぱりアンケート調査をやったら、二十対六ぐらいでわたしのことを認めているんだ。だからといって、わたしは東大の学生を買収したことはないぞ。連中の顔も知らない。これが女の子であれば、絶対に六〇パーセント以上の支持があるとうぬぼれているんだがね。

 わたしはどこへでも出かけて、歩き回りたいんだけれども、世間がうるさくて、目こぼしをしてくれない。
このあいだも郷里の新潟県から上京して、新橋で小料埋屋をやっている人がきた。「いっぺんきてくださいよ」「うん、うん、いくよ」「いく、いくといって、十年もきたためしがないじゃないのしというやりとりをして、お互いに笑ったんだけども……。
 以前、桜内義雄君と原田憲君とわたしの三人で、桜内君のいきつけのバーで飲んだことがある。とても楽しかった。三人で飲んで騒いでおったら、みんなが握手してくれと寄ってくる。
帳面を出して「サインしてください」「伝票の裏に何か書いてください」といってくる。
 宝塚出身の女の子がやってるバーだけど、客のなかには総理官邸記者クラブの新聞記者も三人か四人いた。それで翌日、「田中が桜内、原田と一緒にへべれけになって六本木を飲み歩いていた」と、埋め草記事に使われてしまった。親友と酒を飲んで、盛り場を歩くくらい邪魔するな、といいたいが、そうはさせてくれない。
こんなバカな暮らしを死ぬまで続けたくはないと、つくづく思うよ。せめて二、三年でもいいから、どこかでのんびりさせてほしいと願ってるんだがね。

 わが国の政治に対して、わたしは責任の一端を負わなければならない立場にある。自民党を支えて日本政治の安定を図らなければならない。わたしはいま党を離れてはいるけれども、自民党所属のすべての国会議員と同じ決意を持ち、責任を感じている。
これまでは大平内閣、鈴木内閣の別なく、全力をあげて支えてきた。
これからも中曽根内閣を支えていく。
この決意に変わりはない。わたしは自民党内閣であれば誰が総理大臣になっても全力をあげて応援していくよ。自民党が一致結束して政府をバックアップする。
政局を安定させる。そして、国民の生命、財産を守り、生活を向上させなければならない。これはわたしがどんな立場や境遇にあっても、自ら果たすべき責任なんだ。P-274

【転載終了】

(参考)
●ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 (ニコブログ)…清和会から逮捕者を出してみろと言いたいです。
http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/439.html
投稿者 新世紀人 日時 2010 年 2 月 13 日

●今後の展開に注目したい。 朝日だけの報道で終わるのか? 読売、産経は報ずるのか? 『田中角栄の名誉は回復された』
http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/446.html
投稿者 新世紀人 日時 2010 年 2 月 13 日  

田中角栄の真情。「政局を安定させ、国民の生命と財産を守るためこれからも中曽根内閣を支えてゆく」 その裏で中曽根は何を? 亀ちゃんファン

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