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角栄を取り巻いた人士たち

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角栄を取り巻いた人士たち

 (最新見直し2006.4.23日)
 角栄は、実業界から政治家へと転身し、いつの間にか類稀なるリーダーとして孵化した。これを史上の人物に当てはめて見れば、戦国武将の豊臣秀吉像的成り上がりとアイディア、織田信長的果断と構想力、徳川家康的信義と組織力を兼ね備えた特筆級の大人物だったと思われる。その欠点を敢えて言えば、突出しすぎていたが故に角栄と伍して肩を組む戦友が少なすぎたことかと思われる。

 こうした特質をもつ角栄は、「情と利」、「抗して和す」の政治を貴重としつつ、持ち前の人間透視術と人心収攬(しゅうらん)能力で、有能の士をひたすら寄せていった。以下がその人士達である。

 太田龍・氏は、著書「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように記している。
 「角栄のもとには、大東亜戦争を戦った旧大日本帝国時代の様々な人材がブレーンとして集められ、1960年代に達成された経済力を母体として、対米(ユダヤ)従属のくびきを断ち切った新たな世界戦略に踏み出す気運が育ってきた。その角栄の外交政策の中軸は、日本(角栄)、韓国(朴正キ)、中国(周恩来)、サウジアラビア(ファイサル国王)の四国同盟ではなかったか」。
 「いつとはなしに、こうした“におい”にひかれて、角栄の周りに戦前・戦時中の国粋派、尊皇派、民族派、反米英派の生き残りの人脈が集まってきたのかも知れない」。
 「ここに仮説をたてうるとすれば、恐らく、戦時中の若手中堅官僚出身の自民党政治家グループに共通する、ある種の日本民族自立志向こそ、角栄が代表したのだ。角栄と大平の友情は、単なる個人的な友情ではなくて、実は、その底流に旧官僚層の対米(ユダヤ)従属を嫌う民族独立意識とろ、角栄の共鳴現象が存在したのではなかったか」。

 2006.3.13日再書き込み れんだいこ拝
【1、刎頚の友】
 入内島金一。群馬県の出身で、角栄が上京し勤め始めた時の会社の先輩。終生の刎頚の友となった。
【2ー1、初期の秘書】
曳田照治 ◎最初期の有能秘書で、十年余勤めて病死した。 ◎新潟県南魚沼郡塩沢町に生まれ、苦学して愛知の名古屋工大(現在の名大工学部)を卒業。応召。昭和21年、比島戦線より「復員後暫く家でブラブラしていたが、戦友の紹介でたまたま東京の田中土建工業に就職した。で、田中が初めて総選挙に出ることになり、足がかりの全く無かった魚沼地方の拠点づくりに獅子奮迅の働きをしたんだ。南北魚沼の票は、新潟3区全体の4分の1にあたる。のちに、魚沼は田中の『牙城』・『聖地』と云われたが、曳田あっての牙城、聖地だったといってよかったんです。まさに、『曳田なくして田中無し』だった」(越山会古老会員)と云われるほど有能な秘書であった。 ◎越山会の査定方式、後に開花する日本列島改造論の原型はこの曳田秘書が下敷きしたとも云われている。恰幅の良い雄弁家であって、「以来、豪雪寒冷地域格差の解消に快刀乱麻を絶つがごとき活躍をなし、為に南北魚沼の公共施設は面目を一新し」と碑に刻まれたように「曳田と田中とどちらが代議士か分からない」と云われるほど陳情の根回し処理も凄腕だったといわれている。
【2ー2、後の秘書】
 角栄の秘書は「秘書軍団」といわれた。他の代議士事務所の秘書が比較的よく替わるのに対して、田中の秘書で途中で止めた人はあまりいない。
【角栄邸の秘書】
氏名 在職期間  履歴・秘書活動の内容・評価
榎本敏夫 ◎党の政策担当兼「表金庫番」。
◎東京・北区の質屋の息子として生まれ、大正大学文学部哲学科卒後、民主自由党の職員になる。昭和36年日本電建に総務部長として入社し、40年に田中の秘書となった。
山田泰司 ◎昭和32年7月、角栄が郵政大臣で初入閣時に曳田秘書の急死の後を継いで秘書官となった。 ◎目白邸の大番頭で「江戸家老」的秘書。事業面の管理・事務を担当。 ◎天理教信仰者。田中金脈として名高くなった新星企業の代表取締役も勤めている。東京文京区の畳職人の家に生まれて、中央大学法科を出た後、田中の妻ハナの父親と山田の父親が知り合いだったことから、ハナの父親が経営していた土建業・坂本組に出入りし、その後ハナが田中と結婚、田中が田中土建工業を経営するに及んで入社した。田中との付き合いの始まりである。
田中利男 ◎国会法による第一秘書。角栄の従兄弟に当る。
遠藤昭治 ◎東京・田中邸詰め秘書。新潟県出身で、早稲田大学卒業後、秘書となった。越山会子弟の就職斡旋担当。
田中勇 ◎元秘書。
高鳥修 ◎

【砂防会館事務所の秘書】

 金庫番佐藤女子を筆頭に、マスコミ上がりの早坂、麓らが支えていた。
氏名 在職期間  履歴・秘書活動の内容・評価
佐藤昭子 ◎柏崎市の出身。田中事務所の会計担当で、「奥の院金庫番」、「越山会の女王」と云われた。
早坂茂三 ◎政治担当秘書兼広報担当。東京タイムスの記者をしていたのを引っこ抜き、私設秘書にした。一時日本電建の子会社の「東京ニューハウス」の常務へ転出していたが、戻ってきた。
麓(ふもと)邦明 ◎マスコミ担当。共同通信の記者をしていたのを引っこ抜き、私設秘書にした。きめ細かな資料集めが得意だった。

 履歴は、共同通信社政治部出身で、「旧海軍兵学校から東大を出た共同通信でもエリート記者だった」(増山榮太郎「角栄伝説」)。
古藤昇司 ◎田中邸内の山田と並ぶもう一人の選挙区担当秘書。
朝賀昭 ◎
工藤節子 ◎国会法による第二秘書。
中村喜四郎

【選挙区長岡の越後交通内事務所の秘書】
氏名 在職期間  履歴・秘書活動の内容・評価
本間幸一 ◎新潟の地元の「国家老」的秘書。戦後第一回の総選挙から、田中角栄地元秘書。「国家老」と呼ばれる。越後交通取締役。月刊「越山」の編集。 ◎佐藤昭子と同じく柏崎市の出身。地元の柏崎商業学校を卒業し、東北電力の前身である北陸水力電気会社に就職し、その後新潟鉄工に勤務。新潟鉄工時代に労働組合運動に精を出す左翼闘士となった。知人(佐藤昭子の夫となったばかりの頃)の紹介から角栄の最初の選挙を手伝い、以降田中土建工業の社員になる。 ◎田中にマイナスになることは絶対しない、逆に、プラスになると思ったことは、仮に本人がなんといっても実行し、田中とであって引退までの44年間を黒子に徹して粉骨砕身した。
【3、官庁派遣秘書官、官僚引き抜き秘書】
 当時、首相になると、大蔵省、外務省、警察庁から一人ずつ秘書官が派遣された。角栄は、加えて新たに通産省から小長氏を抜擢し首相秘書官にした。大蔵省は吉本宏、外務省は木内信胤、警察庁は杉原正が派遣された。
小長啓一 通産大臣の時からの秘書官。
【4、書生】
桜井新  早稲田大学理工学部在学中から、書生として務めていた。やがて、南魚沼郡の六日町で土建業を経営、一方で県会議員となり、「越山会」の青年部長としても活躍。昭和55年の衆参同日選挙で、田中と同じ選挙区の新潟3区から立候補して話題を呼んだ。
小谷(兄)  角栄のいとこの子。日大経済学部
小谷(弟)  日大経済学部
樺沢  角栄の縁戚に当る。
城谷  新潟県の柏崎高校出身で、明治大学政経学部。
片岡憲男
【5、官僚】
 「角栄は、システムとしても思考形態としても日本人の骨がらみになっている官僚主義と官僚制度を相手に、あるときは彼らを敵に回し、あるときは逆手にとり、またあるときには彼らを丸ごと味方につけ、驚くべき多くの政治的業績をあげた」(新野哲也「だれが角栄を殺したのか」83P)。
井上孝 議員立法時代 建設官僚
高橋国一郎 建設事務次官
下河辺淳 経済企画庁(後に次長)→国土事務次官
小野吉郎 郵政大臣時代 郵政事務次官
西村尚治 郵政官僚
長田裕二 郵政官僚
山下元利 大蔵省主税局
林義郎
大村襄治
両角良彦 通産次官
小長啓一 通産官僚(後に次官)→アラビア石油社長
後藤田正晴 警察官僚、後副総理
秦野章 警察官僚
【6、弁護士】
原長栄

弁護士。新潟地検の検事の時に田中と知り合い、田中が通産大臣の時に検事を辞めて越山会の会長になった。ロッキード事件の時に弁護団長を引き受け、弁護団を選定した。

【7、政治家】

 殆ど党人派。元帥−木村武雄。仲介役−西村英一、橋本登美三郎。腹心組−二階堂進、小沢辰男、久野忠治。政策面−愛知揆一、木村俊夫。花形スカウト組−江崎真澄、小坂徳三郎。官僚抜擢組−後藤田正晴。後継プリンス−山下元利。将来の後継者−小沢一郎。

 田原総一朗氏は「日本の政治」(講談社)の中で次のように記している。
 「田中政治は角栄が首相に就任して以来、30年も、この国を完全に仕切り、生き続けているわけだ。あらためて、田中派出身の主な実力者たちを並べると、二階堂進、竹下登、金丸信、梶山静六、小沢一朗、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、橋本龍太郎、小渕恵三、野中公務、青木幹雄、綿貫民輔など、興味深いことに旧帝大卒、官僚経験者は一人もいない。田中角栄は、文字通り旧帝大卒が牛耳っていた田中以前の政治構造を叩きつぶしたことがわかる」。
新潟県 小沢辰男 新潟1区の衆院議員
渡辺紘三 新潟2区の衆院議員
高島修 新潟3.4区の衆院議員
系列県議
古参員 西村英一
橋本登美三郎
木村武雄 元建設相、木村元帥と言われた。
二階堂進 木曜クラブ会長、副総裁
久野忠治
植木庚子郎
愛知揆一
足立篤郎
原田憲
亀岡高夫
前田正雄
獅子身中の虫組 金丸信
竹下登
橋本龍太郎
小渕恵三
転籍組 江崎真澄 木曜クラブ副会長
田村元
小坂徳三郎
官僚転進組 後藤田正晴
山下元利 東大法学部卒後、大蔵省入り。鳩山首相の秘書官を勤めていた。角栄の大蔵大臣時代に、山下は主税局税制第一課長で面識となった。後に、西部の堤康次郎の後継者として滋賀県から出馬し、昭和42.1月に当選。田中派に躊躇無く入った。
林義郎
大村襄治
44年当選組 羽田孜 後首相
小沢一郎
梶山静六
渡部恒三 福島2区。父は福島県の県会議員。早稲田の雄弁会に所属し、26歳で県会議員。
奥田敬和
高島修
佐藤恵
石井一
綿貫民輔
斎藤滋与史
中山利生
佐藤守義
稲村利幸
野中英二
有馬元治
浜田幸一
【「第32回衆議院議員総選挙(師走選挙)】

 12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙、佐藤首相、田中角栄幹事長)。沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は44議席失い90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。田中角栄は10期目当選、13万3042票。

 この時羽田孜・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・高島修・佐藤恵・石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らが初当選している。渡部恒三は追加公認。これらの新人組が当然の如く田中入りして「44年組」と云われる軍団になった。浜田幸一もこの時の当選組み。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが、福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると、史上空前の105名となった。

 佐藤派は、福田−保利ラインと田中−川島コンビとに分かれつつあった。

 「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた(社労党「日本社会主義運動史」)。
【8、財界・政商】
政商 五島慶太 東急の創始者。
小佐野賢治 刎頚の友。
田中清玄
財界 中山素平
今里広記
 当時の財界四天王−小林中、永野重雄、桜田武、水野成夫。このうち、永野は角栄を評価し、桜田は嫌った風がある。

 田中系は中山素平、今里広記の資源派。他には土光敏夫、平岩外四らが高く評価していた。西武鉄道グループの総裁・堤義明は可愛がられた方であり、堤も評価していた。

 石坂泰三、桜田武、植村甲午、木川田一隆らは嫌った風がある。
新興企業

【田中シンパ財界人】

 新総合政策研究会会員
中山一郎 日本軽金属相談役
渥美健夫 鹿島建設社長
石田正美 出光興産会長
稲井好広 三菱金属社長
尾本信平 三井金属鉱業社長
菊地庄次郎 日本郵船社長
北裏喜一郎 野村證券社長
久保富夫 三菱自工社長
田口連三 石川島播磨重工会長
中山善郎 大協石油社長
永山時雄 昭和石油社長
西村恒三郎 住友重工社長
長谷部照正 日興リサーチ社長
馬場崎哲 三菱電機取締役
藤田一暁 フジタ工業社長
安居喜造 東レ会長
山形栄治 新日鉄取締役
【9、マスコミ】

 戸川猪佐武 長年読売新聞政治部記者。「小説吉田学校」で、政界万華鏡の史的世界を描いた。
【10、芸能人】

 美空ひばりと誼を得て、昭和43年12.11−12日、新潟県長岡市の厚生会館で「美空ひばりショー」を開催している。「ひばりさんなら、当然ここは数百万円は覚悟のところ、ところが、当時まだお元気だったひばりさんのお母さんがキッパリとおっしやられたんですね。『一銭もいりません。但し、弟に30万か50万もやってください。おカネを使う子ですから』と。結局、ひばりさん自身はノーギャラで出てくださった」(本間幸一秘書)。

(私論.私見)
橋本登美三郎(はしもと とみさぶろう)
 明治34年(1901年)3月5日〜平成元年(1989年)1月19日)は、昭和時代の政治家、衆議院議員。ロッキード事件で有罪となった。

明治34年(1901年)3月5日、茨城県行方郡潮来町の回送問屋の家に生まれる。最初、父は「三郎」という名を考えていたが、親戚が生まれた子供に三郎と名づけたので、母親の名前をつけて「登美三郎」と命名したという。旧制佐原中学から、早稲田大学政経学部に入学。在学中は雄弁会に所属し、闘将と称された。昭和2年(1927年)大学卒業後、朝日新聞社に入社する。満州に特派員として派遣されたのを皮切りに中国で活躍する。南京に日本軍が入場した際、記者15人ほどを引き連れて、一番乗りしたことで有名である(南京事件については、疑問視している証言をしている)。外信部長、東亜部長を歴任し、終戦の昭和20年(1945年)に退社した。

昭和21年(1946年)、衆議院議員総選挙に出馬するが落選。地元潮来町の町長に選ばれる。昭和22年の総選挙に再度出馬するが落選。昭和24年(1949年)に茨城1区(当時)から総選挙に立候補し、三度目の正直で最高点を得票し、当選する。当選後、主に郵政関係、特に電気通信関係の族議員となる。昭和35年(1960年)第一次池田勇人内閣の建設大臣兼首都圏整備委員会委員長として初入閣。佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。昭和39年(1964年)佐藤内閣が発足し、内閣官房長官、建設大臣、運輸大臣、自民党総務会長を歴任する。佐藤退陣を受けての角福戦争では田中陣営の大幹部として、総裁選挙で田中角栄を擁立する。田中内閣成立をうけて、自民党幹事長に就任。政権の大番頭として田中を支える。二階堂進と交代する。

昭和51年(1976年)8月21日 ロッキード事件丸紅ルートで、運輸大臣在任中に500万円を受け取ったとされ、東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕される。
判決を受けて控訴。
平成元年(1989年)1月19日死去。88歳。

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