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公式訴状:アリエル・シャロン:概要

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982年6月4日、アーゴブ在英イスラエル大使暗殺未遂事件に反応したイスラエル軍は、6月6日レバノンに侵入した。イスラエル秘密組織は暗殺未遂を、当時のイラン-イラク戦争での後退から目をそらすためにイラクの政府が徴収したパレスチナ人反体制派組織がを企てた結果だと考えていた。用意周到な準備されたイスラエル軍の軍事行動は、「ガリラヤの平和作戦」と名付けられる。

最初に、イスラエル政府はレバノンの領域へ40km侵攻する意志を表明した。その間に、アリエル・シャロン国防大臣配下の軍司令官は、シャロン氏が数か月前から準備に当たっていたよりさらに、大がかりなプロジェクトの実行を決意した。国の南部を占領し、そこに住んでいたパレスチナとレバノンの住宅を破壊すると同時に一般市民に対して一連の暴行・侵害行為を犯した。1982年6月18日までに、イスラエルの軍隊はベイルートまで侵攻し、町の西側のパレスチナ解放機構(PLO)の武装勢力を包囲した。

レバノンの統計によれば、イスラエル軍の攻撃、とくにベイルートへの集中爆撃による死亡者は18,000名、負傷者30,000名にのぼり、そのほとんどは一般市民であった。

抗戦の2か月後、仲介役のアメリカ特使フィリップ・ハビブ氏を通して休戦交渉が行われ、町の撤退地域に多国籍軍監視の下、PLOのベイルートからの撤退で合意した。予想されたとおり、ハビブ氏は引き続きレバノン軍による西ベイルートの包囲を容認し、撤退後のキャンプにおける一般市民へのアメリカの安全保証によって、パレスチナ指導者の地位も認められた。

1982年9月1日、PLOの撤退終了。

1982年9月10日、多国籍軍、ベイルートから退却。その翌日、アリエル・シャロンは「2,000人のテロリスト」がベイルート周辺のパレスチナ難民キャンプ内に残っていると発表した。レバノン大統領に選出されたばかりのバシール・ジェマイエル氏暗殺があった翌日の、9月15日水曜日には、イスラエル軍は西ベイルートを占領。14,000人以上にのぼる武装抵抗勢力をベイルートとその郊外へ撤退させるとして、住民のほとんどがレバノンとパレスチナの一般市民であるサブラ、シャティーラ両難民キャンプを「包囲・封鎖」した。

歴史家とジャーナリストの多くは、おそらく9月12日にビクファヤ(Bikfaya)において、アリエル・シャロン氏とバシール・ジェマイエル氏の間でなんらかの「会合」がもたれ、「レバノン勢力」がパレスチナの難民キャンプを「一掃する」ことを承認する協定が結ばれたであろうことを認めている。西ベイルートにファランジスト(キリスト教マロン派民兵)を送る意向は、1982年7月9日にシャロン氏によってすでに発表されており、ビクファヤ会議において作戦の交渉がされたことは彼の伝記からも確認できる。

1982年9月22日のクネセット(イスラエル議会)でのアリエル・シャロン氏の宣言によると、ベイルートの難民キャンプへのファランジスト侵攻は、1982年9月15日水曜日15時30分に決定された。またシャロン将軍によれば、イスラエルの司令官は次の通り指示を受けている。
「難民のキャンプへのツァハル(イスラエル国軍)の侵入は禁止される」
「キャンプの『掃射』はファランジスト民兵かレバノン軍によって遂行されること」

1982年9月15日は明け方から、イスラエルの戦闘爆撃機は西ベイルート上空を低空飛行しており、イスラエル軍兵士もその侵入を確認していた。イスラエルの覇権を明示するために、シャティーラの端にのクウェート大使館と配下の部隊の設営区域の接する場所に、午前9時からシャロン将軍自らは任に就く。6階建てのこの建物の屋上からは、サブラとシャティーラの町と難民キャンプをはっきり観察することが可能だった。

正午から、実際には西ベイルートの南側に広がる一つの難民キャンプ地帯であるサブラとシャティーラは、イスラエル軍の戦車と兵士によって囲まれ、キャンプのまわりにはキャンプへの出入りの許可する検問所が設置され、完全監視が行われた。午後遅くから夕方の間に、キャンプは砲弾によって爆撃された。

1982年9月16日木曜日までに、イスラエル軍は西ベイルートを掌握した。解放に際して、「ツァハル(イスラエル国軍)はベイルートの戦略的な拠点のすべてを支配する。テロリストの集中する地域、および難民キャンプは、包囲、封鎖する」と軍の広報官が宣言した。9月16日の朝、軍の高官によって以下の指令が出された。「難民キャンプでの捜査と(テロリスト)一掃は、ファランジストおよびレバノン軍によって行われる」。

午前中の間に、砲弾は町の高所からのキャンプの向けて発射され、イスラエル狙撃兵は通りの人々で撃っていた。正午ごろ、イスラエル軍はファランジストとレバノン軍の民兵軍に難民キャンプへの侵入を許可するゴー・サインを与えた。午後5時を過ぎてまもなく、およそ150名民兵部隊は南および南西側からシャティーラのキャンプへ侵攻する。

その時点で、ドロリ将軍はアリエル・シャロン氏に電話をかけ「友人はキャンプに侵攻しています。我々は彼らの侵入を調整しました」と報告している。シャロン氏は「おめでとう! 我々の友人の作戦には満足している」答えた。

それから40時間、「包囲・封鎖」されたキャンプ内では、民兵軍が、おびただしい数の、それもほとんどは子どもや女性、高齢者である非武装住民を強姦し、殺害し、そして暴行を加えて続けた。組織的一斉検挙の一貫あるいは付随したものであり、またイスラエル軍の支持あるいは支援された民兵軍の行為は、多大なる消失をもたらす。

1982年9月18日土曜日の朝まで、キャンプで何が行われ、虐殺行為を犯している民兵軍のリーダーが誰か完全に把握し、いつでも接触できる状態にありながらイスラエル軍が介入することはなかった。そのかわりに彼らは、夜中、照明弾を打ち上げてキャンプを照らし出し、ヘリコプターと迫撃砲で一般市民がキャンプから脱出するのを防いだ。

犠牲者の試算は、700名(イスラエルの公式試算)から3,500名(イスラエル人ジャーナリストAmnon Kapeliouk氏の試算)まで幅がある。家族によってベイルートの墓地に、または赤十字(ICRC)によって公共墓地に埋葬された人々に加えて、多数の死体が民兵軍によってブルドーザーで整地された建物跡に埋められた。そういった死者の数はおよそ1,000人にのぼるとみられており、正確な数値はこれまでまったく把握されていない。また、ことに9月17日と18日、行先が不明のトラックで生きたまま運び去られた何百もの人々も、決して戻ることはなかった。

虐殺の犠牲者そして生存者は、レバノンであっても、イスラエルや他の地であっても、いかなる司法通達であっても受け取ったことがない。400,000人の人々が通りを埋めた抗議行動のあとの1982年9月、イスラエル議会(クネセット)は調査委員会の議長としてイツァーク・カーン氏を指名した。委員会の命令は限定され(それは政治的な側面だけで法的拘束力をもたなかった) 、また犠牲者の声も要求もまったく欠けてはいたものの、調査委員会は国防大臣個人に虐殺の責任があったことを結論づけた。

調査委員会の主張、そして委員会のレポートが引き金となって行われたデモのあと、シャロン氏は国防大臣のポストから辞職したが、政府には無任所相として残った。さらに悪いことに、「ピース・ナウ」デモの最中、シャロン氏の「辞職」する直前に、デモの参加者が手榴弾によって攻撃され、若いデモンストレーターが命を落とすという結果に終わった。

マックブライドはじめ北欧委員会を含む複数の非公式な調査とレポートは、目撃者の証明に基づいており、報道的かつ歴史的研究といった部分と同様に、(司法的にも)重大な情報がもたらされた。一部のこれら資料は、この訴状への部分的、または全体を添付されている。

国連安全保障理事会が「虐殺犯罪(criminal massacre)」と記述したような証拠があり、20世紀の大罪として全人類の記憶に残るサブラとシャティーラの虐殺が悲劇の上位に位置づけられ、「個人的な責任」が認められ、関係者や人々を虐殺へと向かわせたにもかかわらず、その人物は追求されることも、処罰されることも決してない。

1984年に、イスラエル人ジャーナリストのシッフ氏とヤーリ氏は、一連の虐殺への反応を次のように締めくくっている。「サブラとシャティーラの苦痛のエピソードに対してモラルがあれば、それはまだ(人として)認められるものがあるということだ」。免除という現実がこの日まで残されたが。

国連安全保障理事会は決議521(1982年9月19日)で虐殺を非難した。この非難は虐殺を「集団殺戮(genocide)」行為とみなす1982年12月16日の総会決議に引き継がれた。
公式訴状:サブラ・シャティーラでの虐殺に対する
アリエル・シャロンの関係責任
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