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オウム事件への政治的考察  ーオウム事件=サリン事件ではない 影の闇

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本論の骨子の部分は、10何年か前、阿修羅とは別の場所で書いたモノですが、今回載せるに当り、その後の経過も含めて、現在から解り易いように、書き直し(加え)ました。 勿論、政治的考察の骨格は変えていませんし、今もそれは有効であると思っておりますが、現在と繋げることで更に良く理解出来ると考えたからです。
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さてオウム事件ですが、問題をハッキリとさせる為に、サリン事件とは別けて考えたいと思います。 勿論重なってる部分も在りますが、「オウム裁判」の全過程が明らかにしているように、実体から見れば明らかに別モノとしてみるべきだからです。   オウムにはサリンを製造することも出来なければ、それを使って、松本や地下鉄であったような破壊活動を行う能力も無かった(彼らが作ったモノはサリンもどき、作った本人土谷の言葉を借りれば、ダミーサリン)ーあらゆる先入観とか偏見を排して客観的に見て行く限り、そのような結論にならざるを得ない。
では現実に起きたサリン事件との凄まじい落差をどのように考えたら良いのか? 
言うまでも無くそれがオウムとサリン事件の重なる部分ということですが、そちらへ行く前に、オウムとは何だったのか?何故オウムだったのか?を探ってみようと思います。

オウムを見て先ず気付くのは、冷戦が終焉に向かう頃から活動が活発になり、勢力が急激に拡大して行ってることです。 無論、その客観的な背景は明らかでしょう。 冷戦体制というそれまで社会を覆っていた擬制、或いは無意識の内に共有していた枠組みが崩れ、それまで疑われることの無かった物事の自明性が揺らいでくる時、生き方とか在り方も含め、改めて基軸を求め直す手掛りとなるのは宗教であり、殊に宗教が本来持っている原初的な<世直し>のエネルギーが最も感じ取れるところに惹き付けられていくー多くの宗教学者や専門家が言及しているように、当時、オウムはそういったポテンシャルを有する存在として映っていたことは確かだったでしょう。 近代化という世俗化が、或る意味、極限まで進んだ日本において、宗教の持つ超俗的な面と、選挙に出たりビジネスに走るという、極めて俗的な面を併せ持つ集団ー近代的でありつつ、同時に近代を超える潜勢力を持った存在として、時代の動向に最も鋭敏に反応したのがオウムだった、と言う訳です。

何故オウムだったのか?というのも、単えに、この点に係ってくるのです。

「地下鉄サリン事件」の概要が分かった時、これは殆ど軍事作戦だと想われ、軍人か十分に訓練を受けた者の仕業だと感じました。 事件後、直ぐに韓国から軍事専門家がやって来て、詳細な検証の結果、「これは素人がやったものではない」という結論に達し、それを受けて、韓国政府が全土に非常厳戒態勢を敷いたという事実も、私の見方を裏付けるものでした。
そうして、石原莞爾が「最終戦争」の後に予見していた、少数の戦闘者による不正規の戦い、所謂<不正規戦>の時代にいよいよなったのだな、と思いました。

更にこの後、2期目に入ったクリントン大統領が直ちにやったのが統合参謀本部議長即ち制服組のトップに、米軍史上初めて、不正規戦部門出身者を据えたことも、我が見方を補強するものだと思っております。 


しかしながら、現実の展開は、ご承知の通り、「全てオウムがやったこと」となっています。 それは何故なのか?
何故オウムだったのか?

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