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■d-8-4 日本フリーメーソンの内幕④

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2006-09-09

引き続き『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
日本の著名メーソン
フリーメーソンの“カード”から、すでに故人となった著名な日本人メーソンを拾ってみよう。

鳩山一郎…1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号、以下同じである)、元首相、昭和29年、青年運動の「友愛同志会」(現薫子夫人会長。クーデンホーフ・カーレルギー伯が名誉会長)を結成。「友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている」が鳩山氏の口グセだったという。ちなみに、“パン・ヨーロッパ主義者”でEC創設者の一人、カーレルギー伯はオーストリアのメーソンといわれている。

浅野良三…1951年9月20日入会、No.2。浅野財閥の当主。戦後、経団連結成に参加、小林中などと“新番町会”を結成、池田内閣などとつながった財界人として知られる。

加納久朗…1950年4月3日入会、No.2。吉田元首相の親族として財界側のスポンサー、「不明の外資を導入する男」(『真相』)といわれた。子爵、元横浜正金銀行重役などの戦後財界人。

河合弥八…入会、ロッジ番号不明。元参議院議長、鳩山自由党に参加した保守政治家として有名。

弘世源太郎…1961年4月10日入会、No.1。元日本生命常務、父・現氏が同社社長、妹の正子さんは旧皇族の久邇宮朝融王氏の子息、邦昭氏と結婚。財界の“名門”といえよう。

小松隆…1950年8月8日入会、No.2。元日本鋼管重役、吉田茂日米協会会長時の副会長、後に同会長。ロータリー・クラブの評議員、会長でもある。

田中元彦…不明、No.11。前出の藤山愛一郎氏の実弟、日本NCRの顧問、菱和航空サービス(株)会長、日本アドレソグラフ・マルティングラフ(株)取締役。プリンストン大卒の知米派だった。

村山有…1950年9月8日入会、No.11。元朝日新聞記者、ジャパンタイムズ編集長、幣原首相のGHQとのパイプ役といわれた。戦争中は陸軍中野学校と組み、対米謀略放送に従事、戦後、ボーイスカウトの再建に活躍、アメリカ生まれの二世。

村田五郎…1950年9月8日入会、No.2。ジャパンタイムズ重役、元群馬県知事、元内閣情報局次長、日本会会長。

松本滝蔵…1950年9月8日入会、No.2。広島県出身の代議士。マッカーサー元帥後援の日米親善野球の日本側委員長。

佐藤尚武…1950年一月五日入会、No.2。終戦時の駐ソ大使、戦後代議士。元衆院議長、元外相で、外交界の長老であった。神社本庁の総代会会長に就任、国家神道の再建に貢献した。

野田俊作…1950年3月28日入会、No.2。政友会の父、卯太郎の地盤を継ぎ、代議士。松野鶴平代議士と義兄弟の間。

山下太郎…1950年4月3日入会、No.2。俗に“満州太郎”“アラビア太郎”との異名を持つ財界人、山下汽船の社長。

下条康麿…1950年3月3日入会、No.2。元文部大臣。子息が下条進一郎現代議士である。

植竹悦二郎…1950年1月5日入会、No.2。長野県出身の代議士、戦前の内務大臣、戦後憲法をGHQと会談、作成に協力した。吉田、鳩山政権に参加、リベラリストだったが反共主義者としても有名。

山岡萬之助…不明、No.11。元貴族院議員、日本大学の“中興の祖”といわれる名総長だった。戦後、GHQにより公職追放。

高橋龍太郎…1950年1月5日入会、No.2。元商工大臣、元通産大臣。元東京商工会議所会頭、ビール会社の社長として財界人。

梁瀬長太郎…1950年4月19日入会、No.2。ヤナセ自動車の元社長、同社は日本初の自動車ディーラー、ヤナセ商会が前身で、世界の高級外車を輸入販売して有名。ちなみに、鹿島守之助(鹿島組会長)と親族。「守之助氏はフリーメーソンに十分な理解があり、『鹿島平和研究所』を創設、“パン・アジア”運動や世界連邦運動で有名です。カーレルギー伯やハンフリー副大統領(メーソン)、鳩山薫子ほかに創設した鹿島平和賞を贈呈しています。日本のフリーメーソンに入会を頼んだが、なぜか入られませんでした」(日本のグランド・マスターの話)という。

三島通陽…不明。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボーイスカウト運動に活躍、日本ボーイスカウト連盟総長。

このほか

岡本礼一(1950年入会、No.2。ボーイスカウト運動の役員)

青木義久(1959年5月20日入会、No.11。元満映、記録映画など学術物の映画プロデューサー)

星島二郎(不明。元商工相、サンフランシスコ講和会議全権委員、鳩山自由党に参加、元衆院議長として自民党の長老)

などがいる。

これらの人々をみると戦後社会でそれぞれに重要な働きをしている。戦後の占領時代の混乱のなかで、日本のフリーメーソンが根づき定着していくころが最も華やかなフリーメーソンの歴史であろう。

日本グランド・ロッジ創設(昭和33年)に至る初期の日本人メンバーに村山有氏(前出)という人物がいた。『終戦のころ・思い出の人々』(時事通信社刊)の著作があり、そのなかに「フリーメーソンと日本」という章があって興味深い事実が載っている。

戦後、村山氏と三島通陽氏らはボーイスカウトの再建に動いていたが、GHQではマッカーサー元帥はじめ高官の多くがメーソンと聞き、「今後は真にデモクラシーの兄弟愛で行こう」とフリーメーソン参加の仲間を集めた。賛同したのが、佐藤尚武氏、星島二郎氏、植竹悦二郎氏、高橋龍太郎氏、松本滝蔵氏らでマッカーサー元帥あてに手紙を出した。

その結果、OKが出たが日本人の入会宣誓をどんな方法でやるか問題になった。結局、アメリカ軍将官を前に演説、「要するに、富士山に登るのに道はたくさんあろうが頂上は一つであると同様に、神は一なりの精神を論じ」「聖書をもって日本の各宗派の聖典または教典に代えて宣誓する案」に決した。この案をマッカーサー元帥に提出、アメリカ本部の承認を得た。村山氏は「日本人にフリーメーソンの門戸を解放することの意義は、日本人の人種差別待遇を取り除いて兄弟愛の結合を深めることだった」という。入会式の模様はこうだった。

「1950年1月5日に佐藤尚武、植竹悦二郎、三島通陽、高橋龍太郎、芝金平(後述)の諸氏に筆者も加わって、荘重なフリーメーソンの入会式が行なわれた。GHQのウォーカー少将ほか多数の人が参列してわれわれを祝福してくれた。越えて4月6日には芝金平氏と筆者に、日本で最初のマスターメーソンになる栄誉が与えられ、その儀式は占領軍各国の高官など400名以上が参列して盛大に行なわれ、マッカーサー元帥はとくに最高副官ハフ大佐を代理として出席させたほか、フィリピンからグランド・ロッジ代表ら二十余名も来日して参加した」(同)

4月8日、参議院議員官舎でフリーメーソンのフィリピン代表の歓迎会が開かれ、日本の政財界の名士も多数集まったが、席上、フィリピン代表の一人で後に国連大使や中南米、アフリカの大使として活躍し、教育家としても有名だったマウロ・バラディ氏が大演説した。

「フィリピン人は、果たして日本人をメーソンの兄弟として手を握れるかどうか、私は泣きながら神に祈った。フィリピン代表が日本にくるまでの決意は、悲痛なものであった。今日ここにいる20人の代表のほとんどが、自分の目の前で、その親兄弟を日本軍のために殺され、家屋を焼かれた悲惨な経験の持ち主である。フィリピン人はみんな日本人を呪っており、憎んでいる。しかし、我々は子孫にこの憎悪を永久に伝えてはならないと要請され、メーソンの博愛精神にしたがって日本人をメーソンに迎え入れよと決意を促されて、我々は親子、夫婦相抱いて泣いたのであった。

日本人を兄弟として握手しようと決心し、過去の罪を許してメーソンとして迎える決意をした。しかし、日本人は我々のこの厳粛な気持をわかってくれるか。“汝の敵を愛せよ”と教えているその精神を実行して生きるために、我々は日本にきたのである。この貴い決意こそ我々は子孫に知らせ、そして人類のために最高の友愛の表現として喜んでくれるものと信じている。日本人の責任は大きい−諸君こそが世界の偉大なる期待をもって迎えているパイオニアだ。フィリピン人はひとしくフリーメーソンが日本で伸び、そして我々と兄弟として握手できる人が多くなることを心から願っている」

バラディ氏に対し、日本側から星島二郎氏が、「我々日本人は戦争責任を痛感している。今後は世界平和のために貢献することをみんな望んでいる。日本国民の名において、フィリピンにおける行為について謝罪決議を行なうことを望んでいる」と述べた。そして、星島氏は国会に謝罪決議案を提出、満場一致をもって可決され、それが直ちにフィリピン政府に打電された。これがフリーメーソンの日本でのひとつの働きである。

(つづく)

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