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下村治の慧眼

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一九八〇年代後半の日本経済がバブルであったとは当時誰も気づかなかった、と、よく言われるが、バブルを見越した経済学者はいた。故下村治氏である。一九八七年四月初版の「日本は悪くない—悪いのはアメリカだ—」というやや激越なタイトルの本の中で、下村氏は、当時の株価高騰についてズバリ、「このブームに安易に乗っていてはやけどをする。なぜなら、この動きは経済の実体を反映していない特殊な動きだからだ。株というものに対する一種の信仰が現在の株価を支えているにすぎない」と断言する。

 今にして思えば、まさしくその通りだったのである。この本は、決して反米思想や嫌米趣味の本ではない。むしろ極めて冷静に、当時進みつつあったアメリカの債務国化という現象の原因と問題点、日本に与える影響などを分析したものである。この本が出てから約十三年経過しているが、その問題意識は決して陳腐化していないのみならず、今の世界経済を考える際、ますます重要な視座になっている。

 この当時、レーガン大統領の減税と財政支出増大によって、アメリカの個人消費はその生産力をはるかに上回って伸長し、財政と国際収支の「双子の赤字」が発生した。下村氏の厳しい目は、消費狂い、財政赤字、国際収支悪化(この頃に純債務国に転落!)という三つの問題をもたらした、アメリカの「節度なき経済運営」に向けられる。「日本の輸出増、両国の貿易不均衡は、日本の構造が原因ではなく、アメリカの消費狂い、生産力の不足による。それが証拠に日本以外の国からの輸入も急増している。」と氏は明快に論じ、世界経済に不均衡と不安定を招来しているのは、世界一の大国の節操ない経済運営だ、と断ずる。

 その後、一九九〇年代後半に、情報産業と金融産業の興隆によって、アメリカ経済は空前の好景気となり、財政赤字だけはフローベースでは相当改善したようである。しかし対外累積債務は急増し、消費狂いは貯蓄率マイナスという異常事態に至っている。アメリカは、内需が伸びると輸入が激増する経済構造を、今日完全に定着させた。国内で消費する物品を自国の製造業だけでは供給しきれなくなっている。製造業の衰退は著しく、特に部品や素材といった資本財にはだれも作らなくなった物が多い。半導体やパソコンや自動車のメーカーも、大半の部品や素材を日本やアジア各国のメーカーからの輸入で賄っている。株式市場でも製造業の株価は取り残され、はやりのネット関連諸産業と比べ何ケタも小さくなってしまった。モノ作りという地道な努力を捨て、情報産業と金融産業という付加価値を生まないマネーゲームで生きて行こうとするアメリカに、僕も危うさを感じざるを得ない。

 一般の中小国なら、こんな経済運営をしていればとっくに破綻していると思われるが、アメリカはドルという基軸通貨の国である。輸入に必要な資金は、ドル紙幣をどんどん印刷すれば賄えるのだ。こうして膨張する一方のマネーが投機化すれば、一九九七年の、アジア危機に始まった連鎖的な世界金融不安のような事態がたちどころに惹起される。我々は累卵の上で生活しているようなものだ。

 ではアメリカはどうすべきか。下村氏の見立ては極めてオーソドックスである。即ち、増税と財政削減による縮小均衡策こそが健全な経済運営である。つまり、アメリカが主導するIMF(国際通貨基金)が一九九七年にアジア諸国に強いた政策そのものである。もちろんその間は不況になるので、アメリカ国民は痛みを我慢する必要がある。しかしその痛みは、第二次世界大戦前の大恐慌と比べれば、「豪華マンションから普通のマンションに住み替える」程度のものであり、決して耐え難いほどではない。「今のままの経済運営は麻薬中毒患者に麻薬を打ち続けるようなもの」で、麻薬をやめるのが遅れれば取り返しがつかなくなる、と氏は警告する。下村氏は、アメリカの縮小均衡策による世界の混乱は、第二次世界大戦前の大恐慌ほどには悲惨ではなかろう、と述べる。戦前の大恐慌では、関税を上げ為替を切り下げる競争、つまり隣人窮乏化政策によって、各国とも輸出を増やし輸入を減らそうとしたので、螺旋状に世界経済は縮小していったが、今は輸出競争が起こるわけではなく、大輸入国アメリカがその金額を減らすだけであり、かつ戦前とは比べ物にならないくらい各種の国際機関が機能しているからだ。

 しかしその後の現実のアメリカは、縮小均衡どころか、貯蓄率マイナスの消費狂いという麻薬をやめる気配はなく、むしろ日本人に、もっと消費をしないから景気が良くならないなどと、酔っ払ったようなアドヴァイスまでしてくる有り様だ。

 ドル紙幣ばらまきはインフレの下地を形成しており、インフレ懸念が出ればただちにドルの信認が問われ、資本がアメリカから流出し、ドルは崩落する恐れがある。下村氏は、この当時既に、アメリカのインフレで日本のドル資産は何千億円か何兆円か目減りしているはずだと述べているが、その後日本が円高で失った金額は下村氏が述べた金額の何百倍かである。この間の我が国の何という無能、無策か! 一体現在では、ドル下落に対して、自国の金融資産を守るための戦略はきちんと考えられているのだろうか。識者の中には、金利も含めた総合利回りでは、この間を日本国債で運用していた場合よりも米国債で運用していた方が結果的には収益性が高かったと言う人もいるが、そう言えるのは、元本が返ってくれば、の話である。下村氏は、最終的にはアメリカはモラトリアム(支払猶予、借金の棒引き)による解決を図るのではないか、と極めて冷徹に予想する。曰く「日本がアメリカに貸しているカネは返って来ない」「日本は大変な資本輸出国になったなどと言われるが、その資本たるや、蜃気楼に過ぎない」等々。これほど今日の日本の金融資産の危うさを端的に述べた言葉はないだろう。

 こうした事態が現実化した時の日本経済への影響についても、氏は冷静に想定しておられる。そういう場合、金融機関が真っ先に大きな影響を受けるが、一般国民や企業には直接即刻の影響はそれほどない。「何しろ問題は、経済の実体ではなくてカネだけの話である。このアブクのようなものの流通が一時的に混乱するにすぎない。」金融機関の決済ネットワークが崩れさえしなければ、つまり、政府が信用秩序を維持するために細心の注意を払って、どんな小さな金融機関でも経営危機になれば乗り出すことさえしていれば、信用秩序が崩壊して恐慌が起こることはない、と言う。しかし、実際の一九九七年秋の山一証券、三洋証券、拓銀から始まった金融危機では、無責任な市場原理主義者の発言や不安心理に便乗した外資系金融機関の投機活動で、必要な信用秩序維持の努力が阻害され、いたずらに信用不安を拡大したのだ。中長期的な金融自由化と、目の前の危機への対処をごっちゃにした市場原理主義者の罪は重い。

 一九八七年という時点で、「世界同時不況を覚悟すべきであり、日米両国は縮小均衡から再出発すべきである」「日本人も、ここ数年の豊かな生活はレーガンの余録と思ったほうがいい。今気づいてアメリカが節度ある経済運営に戻れば、余計な成長が剥げ落ちるだけで、四、五年前に戻るだけなのでたいした混乱はない」「中国の経済成長などで、資源エネルギーはますます使えなくなる。近代経済学の前提としていた無尽蔵の資源なる状況はいよいよ成り立たず、そういう制約のもとで先進工業国の経済成長率は低くなるのは当然」と警告を発する氏の慧眼は驚くべきである。この後日本は自分自身がますますバブルにのめり込み、それが破裂し、元の経済の軌道に戻るのにさえ四苦八苦している状況だ。

 資源の制約に対し、唯一の成長の可能性は技術革新によるブレイクスルーだが、これについても、氏は過度な期待はしない。「バイオや遺伝子技術は、医療や食糧生産には有効だが、経済成長の起爆剤には弱い」情報産業はどうか。この当時はパソコンやインターネットは現れていなかったので、氏の視野には入っていない。僕が考えるに、ネットビジネスの実相とは、今まで「現物」や電話で行われてきたモノやカネの流通を、ネットに代替する運動である。国民経済全体としてはゼロサムゲームに近いのではないだろうか。携帯電話やパソコンやネット関連諸産業の隆盛は、問屋や小売業や従来型金融仲介業の衰退で相当相殺される。追加的な付加価値は小さいと見るべきではないか。製造業の革新技術、例えばトヨタのハイブリッドカー開発の方が本当に意味のある革新であり、経済的付加価値ではないだろうか。

 資産国家日本の一般国民への下村氏のメッセージは極めてシンプルである。曰く「各個人はあまりマネーゲームに惑わされず堅実な生活設計をたてることだ。平凡で堅実な生き方、それを続ける限り間違いはない。あまり欲の皮を張りすぎると悪徳業者にだまされるのがオチである」と。一昨年の円安時には外貨預金がはやり、最近再び株価が上昇基調に転じて投信ブームが来そうな感もあるが、我々は充分慎重にかまえた方が良さそうだ。そして何よりも、氏は、国民に利己主義を捨て公のために汗を流す心構えを訴える。「我々の社会、我々の経済を安定した望ましい形にするには、自分たちの汗と、場合によっては血を流さなければならない、という覚悟、そういう苦しみや犠牲に耐える覚悟と能力と意欲が必要であるという精神が、日本では非常に希薄になっている。これは世界的な傾向だが、アメリカなどにはまだ残っている。しかし日本では非常に欠如している。」と。




 

 さて、こうしたアメリカの現状の問題点とその影響についての正鵠を得た骨太の観察からは、次のような様々な論点が派生して出て来る。いずれも、とても十三年前の発言とは思えないほど、現在の我々にとって切実な問題ばかりである。

①「小宮隆太郎氏以外の日本のエコノミストは、皆腹が据わっていない。日本加害者論から、アメリカが悪いが仕方なく協力必要論まで、何と的を得ない論述ばかりだ。貯蓄超過が輸出超過の『原因』である、という証明不能の見解が流布するのが日本の経済論壇である。」

「前川レポートは日本の健全さを捨てさせるものである。すなわち、この報告書が言う構造改善とは、働く意欲を阻害し、勤労精神・貯蓄精神を緩め、節度ある経済・財政運営の気構えをなくして、もっと気楽な気持で鷹揚にカネをばらまき、怠けて遊ぶようにしなさい、ということである。日本列島がどういう島か、燃料も食料も無い国で、そんなことが成り立つのかどうか、という基本視座を忘れている。」

「日本人の慎重な消費態度は健全で、国の宝とも言うべき性向である。」

「日本人の貯蓄精神は、先のことを考え、遠い将来の安全性を充分考えようとする家計の健全な行動である。」

バブルとその崩壊を経た今になって、これらの指摘は全く正しかったことが判明した。日本の家計は、不動産というリスク資産を既に相当の比重で有しているので、これ以上のリスクマネーを取り込むニーズは乏しいことも、バブル崩壊で身にしみたはずである。

②「国民経済の健全な運営こそが政策目的でなければならない。国民経済とは何か。それは日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べ、どうやって生きて行けるかという問題である。この一億二千万人は、日本列島で生活する運命から逃れることはできない。この人たちがどうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。もちろん他の国もそういう努力をするから、いろんな摩擦が起こる。それを何とか調整するのが国際経済である。強者の論理にすぎない面のある自由貿易主義を絶対化したり、多国籍企業の利害から出てくるにすぎない国境消滅論を唱えるのは、国民のことを考えない無責任な言論である。自由貿易を謳歌した大英帝国は、インドの紡績産業を『自由貿易』によって破壊してインドを綿花生産国に転落させ、中国へのアヘン輸出『自由化』を阻害されたことを口実に戦争を起こした。自由貿易主義が単に植民地主義の看板に使われてきた歴史を見れば、自由貿易が絶対的な価値ではないことは容易にわかる。」

最近も「グローバル化」を何か特別の価値のように言う経済マスコミが多いが、国際標準は、他国の基準に無理やり合わせることであってはならず、あくまで国民経済に有益になるようにうまく立ち回り、利用し、そして自ら世界を主導して作り出してゆくものでなけらばならない。

③「アメリカの経営者の問題点は、血まみれになって産業を起こそうとか維持しようとかいう意気込みが弱いことだ。ベンチャービジネスでも、適当なところまで儲けて後は売ってしまおうと思っている。日本のソニーや松下のように、小さな町工場から興してだんだん大きくしようという意欲が弱い。大企業の経営者も、事業家というよりは、雇われ経営者で、目先の利益だけを考えて、何かの仕事に命運を賭けるという発想はない。」

経営の透明性など、アメリカ型経営の良いところは採り入れればいいが、企業家精神はアメリカと異なるものであった方がいいと僕も思う。

④「アメリカのアナリスト、エコノミストの問題点は、マネーゲームに振り回されることである。アナリストは目先の情報をいかに利用して流れに乗り、うまい具合に儲けるかしか考えていない。目先の情報に一喜一憂してそればかりを追いかけている。基本的な状況がどうかを考えない。エコノミストはカネの調整、即ち、財政と金融の調整をうまく組み合わせさえすれば経済はうまく回転すると信じている。」

エコノミストと称せられる人たちには、人間と言う基本視座を持たない危険な「社会工学者」がいる。「本当に人間のためになるのかどうか」から経済学は始まっているはずなのだが、いつのまにか、自分の社会工学的実験を成し遂げたいという欲望が強くなってしまう人たちである。最近の「目標インフレ率」という主張もそれである。おカネの量を調整すれば経済がうまくいくなどという幼稚な考えが学問の形を装っているとは恐ろしいことである。それはちょうど、人体実験をやりたくて仕方ない子供じみた医者に似ている。机上の空論を実験された国民はたまらない。

⑤「日本の産業に二重構造は確かに存在する。つまり、自動車のような高効率産業と農業のような低効率産業の併存である。しかしこうした問題は各国ともそれぞれの歴史的背景から必ず存在する。効率の悪い産業は就業確保のためやむを得ない部分がある。」

現在の建設業、金融業も効率性の低さは同じである。自由化を進め、供給サイドにイノヴェーションを期待し、効率を追求するには、失業の痛みを最小化しスムーズに就業確保することが最大の課題だろう。

⑥「農業は確かにおかしい。ビニールハウスでカネをかけて作った野菜は売れて、露地栽培の畑でできた曲がったキュウリは売れない。本当は栄養的にも経済的にも曲がったキュウリの方がいいのに。悪く保護されてきて生産者が余計なことで儲けようとし、消費者もそれに馴らされておかしな嗜好になってきた。」

農業を健全化、効率化して一定の食糧自給を確保するにはどうするか、これからますます重要な課題だと思われる。

 下村治氏の別の著作「日本経済の節度」(一九八七年、東洋経済新報社)も読んだが、内外ともに「均衡」ある発展とはどういうことか、具体的かつ基本視座が大変明快である。ベア、国際収支、財政など、いづれも単体での議論では役に立たない。経済全体が均衡のとれる条件を模索すべきとの視座は大変有益である。高度成長期の条件とゼロ成長期の条件とはおのずから異なるのである。

(二〇〇〇年二月八日)

 

下村 治(一九一〇年〜一九八九年)

佐賀県出身。東大経済学部卒後、大蔵省入省。アメリカ在勤後、日銀政策委員等を歴任。退任後はエコノミストとして活躍した。池田勇人内閣の経済ブレーンとして、日本の高度経済成長を予見。所得倍増計画の策定に携わる。一九七三年の第一次石油ショック後は、成長の条件が無くなったとして、ゼロ成長論を一貫して唱えた。

 

〈参考にした文献〉

下村 治「日本は悪くない—悪いのはアメリカだ—」(文芸春秋)

下村治の慧眼

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