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【ジャーナリスト萩原遼さんの過去のブログ記事】 金日成は金正日に殺された passenger

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(2007年)6月21日  ストックホルム通信

6月21日(水)研究所で講演

こちらの研究所で私の講演がありました。日本語で約40分話し、質疑応答を含めて通訳入りで2時間の講演。池上先生(研究所所長・ストックホルム大学教授)が英語に通訳してくれました。
アジア研究所といってもヨーロッパからは遠い極東の地、関心の度合いはもうひとつという感じでした。それでもいちばん関心があるという金日成死亡原因についてはいくつか質問も出ました。当時を思い出して、ロンドンの新聞で金日成死亡を知ったという人もいました。別の研究者は「避暑地に向かう車の中でニュースを聞いた。同乗者がスエーデンの朝鮮戦争休戦協定にともなう中立国監視委員もしていたことがあり、板門店に常駐していたこともある人だったため金日成死亡をめぐり話し合った」という思い出話も出ました。
スエーデン人で韓国語を教えているべつの学者は「私も長く朝鮮半島にかかわっているが金日成
が金正日に殺されたというのは初耳だ」という感想もありました。
講演内容は別項で紹介します。
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2006/7/6 23:34
6月21日講演さわり その1  ストックホルム通信

6月21日の講演のさわりの部分  金日成は金正日に殺された

いまの北朝鮮問題の核心はここに集約されていると私は思うので本日はこれにしぼって語りたい。説明に入る前に私がどういう経緯で金日成の謀殺疑惑に到達したかについて簡単に説明する。
金日成死亡が発表された1994年7月9日正午のニュース。本当に驚いた。あれだけ元気だったのに、という印象だけで、まさか息子に殺されたなどとは考えもしなかった。
その後日本で、何人かの朝鮮問題専門家から金日成は毒殺されたとか、金正日が耐え難い暴言を吐いたために金日成が怒りで心臓ショックをおこしたなどの説が出た。しかし、なぜ金日成を殺さねばならないのかの動機が薄弱で、にわかには信じがたかった。
2000年5月からアメリカに定着して北朝鮮の研究をするなかでWFP(国連・世界食糧計画)が1991年4月に発表した報告書を知った。それを読んで私は戦慄した。
この報告書は、1991年3月5日から23日までWFPのスタッフが北朝鮮に食糧事情の調査に入った報告である。金正日は調査団の入国を許可した。ところが金日成はあとでその事実を知り「帝国主義者にわが国の秘密を漏らすのか」と激怒し調査団を追放した。その追放を告げたときの北朝鮮の説明はこうである。
On 19 March 1991 the mission was informed that for some special reasons the information sought by the mission could not be released but the Government hoped to be able to do so in the future.
このくだりを読んだとき、金正日は金日成の死を望んでいると私は読めた。あなたがた調査団が求める情報はいまは特別の理由で渡せないが、いずれ渡せるときがくるであろう。つまり金日成が死ねば渡せる、と言外に言っているではないか。やはり父殺しは事実かもしれないとそのとき初めて思った。
取材を進めるなかで親子の対立が見えてきた。たんなる親子のいさかいといった軽いものではなく国の生き残りをかけた必死の政策的対立である。それは社会主義圏のあいつぐ崩壊のさなか、宗主国のソ連も崩壊し、つぎは北朝鮮崩壊かという1992年ごろである。
父金日成は農業を建て直し、人民に十分に食わせて民心をつかみ崩壊をくいとめようとした。農業建て直しのため肥料増産のための火力発電所の建設を主張。
息子金正日は核兵器開発によって人民と周辺国を脅迫する政策を選択し、核開発に役立つ原子力発電の軽水炉の導入に固執した。このほか金正日はさらに恐ろしい別の策略で難局を切り抜けようとした。敵対階層数百万人の殺戮である。
父親からほとんどの実権を委譲されていた金正日は腹心を動かし米朝交渉でアメリカから軽水炉を導入する話を進め、ほぼ見とうしのついたのが1993年7月。この動きを全面否定したのが金日成であった。その年の12月、朝鮮労働党中央委員会第6期第21回総会での結語で金日成はこう述べた。
「原子力発電所の建設は6年から10年かかる。それまで待つわけにはいかない。
火力発電所の建設に力を入れよ」
金正日には大きな打撃であった。金正日にさらに打撃になったのは、1994年6月17日、米朝核対決の調停のために平壌に乗り込んできたカーター元米大統領であった。彼の斡旋で史上初の南北朝鮮の首脳会談の運びとなった。金回りのよい韓国の金泳三大統領は手土産に10億ドルとコメ百万トンを持ってくるとも言われた。その金が入れば金日成の構想する火力発電所はたちどころにできる。肥料は増産され、農業生産は高まる。飢餓はなくなる。
窮地に陥ったのは金正日。彼の核開発計画は霧散する。そしてもうひとつの策略である敵対階層抹殺構想も破綻する。この構想の大前提は飢餓状態が広く存在することである。飢餓であればあるほど彼の策略は成功する。すべての食糧が中央政府の配給制の北朝鮮では、配給のさじ加減で音もなく人民を殺すことができる。餓死を装って合法的に殺人が行える。
そこで金正日はこの南北首脳会談に強く反対した。父子間にやめてくれ、やめない、の激しい口論があったことは北朝鮮の公式の文献にも出ている。金日成はあくまでもやると言いつのり、6月28日には会談の日程(7月25日から3日間、平壌で)まで決まった。もうあとがない。なんとしても金日成を亡き者にしなければならない。このときから金正日にはっきりとした殺意がめばえたと私は思った。
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2006/7/6 23:37
6月21日講演さわり その2  ストックホルム通信

6月末から金日成は恒例の避暑に入った。場所は平壌から北に140キロの妙香山別荘。韓国大統領との首脳会談もこの別荘を予定していた。平壌を離れて人目につかない場所に移動した金日成を絶好の機会と金正日はみたのであろう。いつ、どのような手口で金日成を消すか。おそらくそのことばかり日夜金正日は考えたのであろう。そのころから出張った腹は引っ込み、彼は目に見えてやせていった。金正日ウオッチャーから病気ではないかとの観測も流れた。
そして1994年7月7日の運命の日を迎えるのである。私は、金日成がこの日に死なねばならなかったことを割り出したとき、その恐ろしさに鳥肌が立った。
1994年7月6日と7日の2日間、金日成は自分の別荘に経済閣僚や経済専門家およそ100人を集めて経済幹部協議会を開いた。ここで金日成は改めて、こう主張した。
“軽水炉の導入は不足する電気生産の改善にはなるが10年もかかる。それまで待つわけには行かない。その間をどうしのぐのか。てっとり早く電気を生産するのは火力発電だ。重油を輸入し新たに4箇所の火力発電所を作り、肥料工場を稼動させ、年間85万トンの肥料を生産し、農村に送り食糧生産を保障せよ。”
この会議をボイコットしていた金正日はその夜(7月6日)おそく、取り寄せた録音テープで金日成の方針を知った。彼の方針の真っ向からの否定である。金正日はすでに腹心の姜錫柱(カン・ソクチュ)第1外務次官をジュネーブに派遣していた。7月8日午前9時から、米朝高官会議第3ラウンドが予定されていた。ここでアメリカは軽水炉を供与することでほぼ同意していた。
軽水炉ではなく火力発電所でいけという偉大なる首領金日成の指示は絶対である。この訓令がジュネーブに届けば、金正日の方針はくつがえされる。政治生命を失うだけでなく、この後の金正日の戦略の全面的撤回となり、彼自身も死を悟った。生き残るには金日成を殺すしかない。ジュネーブ会議の始まる8日午前9時まで残された時間は丸1日。
金日成は北朝鮮時間の8日午前2時(ジュネーブ時間の7日午後6時)心臓発作により死んだと北朝鮮当局が発表した。会議の始まる15時間前である。
私は事実を洗い出すなかで、金日成はこの時間帯に死ななければならないことを割りだしたのは、2004年5月だった。そのことを日本の友人に自宅の縁側で夕方ビールを飲みながら語った。彼の驚きの表情に私自身も怖くなった。そのとき満月かそれに近い月が森の梢の上に上ってきた。まだ昇ったばかりの赤い色の月であった。何かぞっとするものを感じて思わず両腕の鳥肌をさすった。
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2006/7/6 23:29
6月22日  ストックホルム通信

6月22日(木)金日成の暗殺時の状況

スエーデン駐在スイス大使館のナンバー2の方が、22日午後、別途話を聞きに研究所に来てくれました。池上先生の斡旋です。前日の講演内容を池上先生がかいつまんで説明したあと、大使館幹部が「金日成が殺された状況について知っていれば教えてほしい」といいました。
私はいくつか聞いた中で最近聞いた二つの話に合理性があると前置きして紹介しました。
1.1994年7月5日、6日の両日金日成が召集した経済協議会が終わった次の日の7日も午前中会議が続いた。金日成は午後も続けようといって慣例の午睡に入った。その直後会議参加者100人ほどは急遽平壌にもどれという金正日の指示でバスで引き返した。なぜか数人の人間は残った。いずれも熱烈な金正日忠誠派であった。午睡から目覚めた金日成は誰もいなくなったことを知り、怒りの目で宙をにらんでいた。そして残った数人を自室に呼びいれ、金正日のとった措置について厳しく叱責し平壌に戻ってよく伝えよと不満の言葉を並べ立てた。金正日に代わって何時間も叱責された幹部たちを金日成の副官は気の毒がって別室でとりなし、食事や酒を出してもてなした。深夜になった。まだ主席の部屋に明かりがついている。
「ちょっと様子を見てきます」といって席を立った副官は真っ青な顔で戻ってきた。金日成がすでに死んでいると伝えた。
(この話を伝えた北朝鮮の元高官は、金正日忠誠派が金日成死亡のさなかに現場にいたことが疑念をぬぐえないと、見られていると述べた)
2.金日成を暗殺したのは金正日の密命を受けた軍人グループ
7月7日の夜、平壌を飛び立ったヘリコプターが北に向かって飛んだ。その後突然機影が消えた。この事実は在韓米軍のレーダーが確認している。
金正日側は、金日成が心臓発作を起こしたとの急報ですぐに医者、看護婦、医療機器を乗せたヘリが現場に急行したが、悪天候でヘリは墜落した、と説明している。韓徳銖・朝鮮総連議長が平壌で説明されたと、朝鮮総連本部で報告した。
「これは真っ赤なうそだ。ヘリに乗っていたのは金日成暗殺ティームだったのだ。金日成を殺し、戻る途中でヘリを爆破し、証拠隠滅したのだ」
これを私(萩原)に話してくれたのは李民馥氏という95年に韓国に亡命したエリート農学者。脱北した二人の北朝鮮高官から聞いたと私に披露してくれた。彼は言った。
「軍のベテランが操縦するヘリが悪天候ぐらいで墜落しますか?」

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